フジの冬芽
紫の美しい花をつけるのがフジ。花を咲かせるのは4月中旬から5月中旬にかけてで、もちろん今は花も休眠中で、寒さにじっと耐えています。でも、フジもやっぱり、春の準備を着々と整えているのですね。
紫の美しい花をつけるのがフジ。花を咲かせるのは4月中旬から5月中旬にかけてで、もちろん今は花も休眠中で、寒さにじっと耐えています。でも、フジもやっぱり、春の準備を着々と整えているのですね。
これ、なんの岩だかおわかりでしょうか? お墓? 石碑? いえいえちがいます。自然の石なんです。川内村の北西エリアにある糠馬喰山にある石です。
本日は、けんこう造林についてご案内します。けんこう造林と言われれば、健康造林だとお思いでしょうが、残念でした。県行造林と書きます。県が管理する林の一部なのですが、県管轄の林にも、いろいろあるんですね。
県行造林は、あるいは分収造林なんて書いたりもします。県と森林所有者とが分収林契約を結んで造林し、木々を育てて伐採して、その収益を分けあうというシステムです。看板は新しいですが、記された日付をみると、大昔のものだとわかります。まだ林業が国の事業として盛んだった頃の制度なのですね。最近では森林浴などを楽しむために整備された山林も少なくないですが、この時代の山林といえば、材木を切り出して収入にしようという経済活動でした。
ここは、福島県と川内村が分収林契約をした場所です。山の中ですが、滝平1番地外6筆という詳細な住所表示も興味深いところです。
昭和12年といえば、ちょうど今年の2月1日で77年が過ぎたことになります。けんこう造林も77歳の喜寿を迎えて、ますます健康でいてください。
造林地所有者、造林を行う者、費用負担者の3者またはいずれか2者で分収造林契約を結び、その収益を分け合う森林である。
郷倉と書いて、ごうぐらと読みます。故郷のこころあたたまる倉庫、みたいな漢字にも見えなくはありませんが、そもそもはもっと昔の古い時代のしきたりにのっとった倉庫です。
こういった郷倉は、村の地区ごとにあった倉庫ですが、その時代は江戸時代。そして中に入れていたのは、年貢米だったということです。「もういいかげん観念しなさい」って言いたいときに「そろそろ年貢の納め時」みたいな言い方をします。長いお付き合いの末にいよいよ入籍するおめでたい場面で言われることもあると思いますが、年貢とは、まぁ税金です。
江戸時代には税金はお金ではなくてお米で払っていて、だから当時の国には何万石なんてお米の生産高でその勢力を計っていたものですが、お米を収穫するのと年貢として納めるのとが同時ではないので、どこかで保存しておかなければいけません。そこで郷倉の出番です。年貢を納めるときまで、お米はこの郷倉でじっくり保存されるというわけです。
あるいはまた、何年か一度の凶作に備えて、お米を保存したりするのに使われることもあったといいます。そんな今は昔、共同倉庫だった郷倉は、村のところどころで見かけることができます。大事な年貢を保存するところだからか、倉庫の材料は、丈夫な栗の木で作られていることが多いようです。
川内村には、ヘリポートがあります。村役場のすぐ後ろ側。コミュニティセンターと体育館のすぐ横に広がった、一見芝生の広場が、ヘリポートです。
ここに飛んでくるのは、消防防災ヘリコプター「ふくしま」です。県内全域を活動エリアとして、上空からの消火や救急、救助などの消防防災活動を行うために、平成10年2月に導入されました。
めったに飛んでくるものではないし、ここからヘリが離発着するのはただならぬときがあったときですから、ただ芝生が広がっているだけの方が平和なのですが、万一の際の安心という点で、川内村の、いわば命綱です。実は我が村長も、このヘリコプターに救われたことがあります。
芝生敷きになっているのは、楽しいピクニックをするためではなく、ヘリが離発着する際には、プロペラの風を受けても土ぼこりが起きにくいように、ということです。
3月2日日曜日、13時から、田村市文化センターで、人形浄瑠璃の福島公演が催されます。入場無料です。日本の伝統芸能に触れるチャンスがやってきます。
この人形浄瑠璃。NPO法人コミュニティワーク研究実践センターの主催で、公益財団法人さっぽろ青少年助成活動協会との共催で開催されます。人形遣いはさっぽろ人形浄瑠璃芝居あしり座のみなさん。はるばる北海道からやってきます。
開場は開演30分前。公演演目は「二人三番叟」「壺坂観音霊験記 山の段」の二演目。この他、人形解説や人形体験コーナーもあって、全体のプログラムは1時間15分ほどということです。申し込みは不要です。
川内村には、現在小学校が一つと中学校が一つありますが、現在の小学校ができる前は、村には3つの小学校がありました。そのうちのひとつが、川内第二小学校でした。その川内第二小学校が、このたび取り壊されることになり、現在、取り壊し作業が進んでいます。
第二小学校は、平成16年(2004年)3月に閉校になったあと、平成18年(2006年)4月に大智学園高等学校として再出発しました。大智学園は通信制の普通高校で、ここを本拠地として新宿区にも校舎を持ち、生徒さんたちは東京と川内村を行き来をしながら高校生活を送っていました。
川内第2小学校は、上川内小学校として明治年間に開校し、昭和39年(1964年)6月に今の校舎ができあがっています。
明治6年に上川内字沢42番地(今の大智学園から少し離れたところ)に開校した上川内小学校は、男37人、女7人のあわせて44人が就学しました。生徒数はその後激増し、昭和24年には459名を数え、6学年で10学級を持つ大きな学校に育ちました。やがて児童数は減少し、昭和45年には220名、昭和48年に211人、47年に181人、49年に139人となり、閉校となった平成16年3月は64名でした。
第2小学校は、2011年3月の震災時に大きな損壊を受けて、修復がむずかしいことにより取り壊しが決まったものです。
体育館は校舎に遅れること2年の昭和41年3月に完成しましたが、現在体育館は手作り家具の四季工房さんがそのまま使っています。こちらは地震の被害がごく少なかったため、そのまま残されることになっています。
たまたま、天山文庫方面から川内第2小学校方向を見た写真がありました。下の写真がそれで、2013年5月に撮影したものです。校舎の端の部分のモルタル壁が落ちてしまっているのがわかると思います。
川内村で最も早く開校した小学校ですが、今、ひっそりとその姿を消そうとしています。
最後に、昭和31年9月に制定された校歌をご紹介します。川内村の小中学校の中では一番早く校歌が制定されたため、唯一草野心平作詞でない校歌が、この川内第二小学校校歌です。
作詞:作山美八
作曲:紺野五郎
一
朝ぎり 晴るる 大滝根
夕月 うかぶ 木戸川よ
平和の里に今日もまた
歓びの歌 わき立たん
ああ 川内第二小学校
二
緑の野辺の 涼風に
仔馬(こま)のむれの むつましさ
われらも共に 手をとりて
学びの庭に いざ むかん
ああ 川内第二小学校
三
嵐も雪も のりこえて
やがては国の 柱ぞと
希望も高く 朗らかに
若木の如く 伸びゆかん
ああ 川内第二小学校
川内村には、かわうち草野心平記念館があって、詩人の草野心平が愛した天山文庫があります。晩年の心平先生は、ここに足しげく通い、詩を書き、庭の池のコイをかわいがり、季節を眺めていたものでしたが、ここに、こんな書庫があります。おもしろいかたちをしていますが、これは実は酒樽であります。
草野心平先生が川内村の名誉村民となったのは1960年のことですが、このとき村は、名誉村民となった心平先生に木炭100俵を贈っています。この木炭は心平先生にはもてあますものだったのですが、心平先生はこの礼として、ご自身の蔵書3000冊を村に寄贈することにしたということです。
東京にお住まいの心平先生にとって木炭100俵もたいへんな量でしたが、村としても3000冊の貴重な蔵書もまたたいへんなもので、保管場所を何とかしなければいけないということで始まったのが、文庫建設の話です。
天山文庫の設計は日本建築の権威の山本勝巳氏でした。山本勝巳さんは俳優山本學、山本圭、山本亘兄弟の父で、天山文庫の他、美ヶ原高原ホテルや会津武家屋敷日新館の設計も手がけられました建築家で、独立以前は大林組にお勤めだったということですが、今、除染で川内村を拠点にしているのが大林組ですから、ご縁は不思議なものです。
天山文庫は、やがて村民が一木一草を持ち寄って、労働を奉仕してできあがりました。
文庫設立にあたっては、心平先生の友人が設立発起人として名を連ねていますが、そこには井上靖、金子光晴、唐木順三、河上徹太郎、川端康成、小林勇、高村豊周、武田奉淳、谷川徹三、武者小路実篤、林野四郎、、山本健吉らのそうそうたる名前が並んでいます。
この天山文庫に少し離れて、この不思議な建物が建っています。これは亨保3年(1717年)創業の老舗日本酒メーカー「花春」さんが寄贈してくれたもので、酒樽であります。心平先生より寄贈された本のうちの一部が、こちらに収められているのですが、お酒の好きだった心平先生の天山文庫らしいエピソードだと思います。
2月13日、気温はマイナス13度まで下がりました。寒い寒いといわれている川内村ですが、平野部でこれくらいに下がるときはめったにありません。先週の大雪以降、川内村は本格的な冬になってます。
ちょっと気が早いですが、早春の宿り木、ヤドリギです。ヤドリギは1年中緑色の葉をつけているので、冬の今でも、この写真と似たような姿を見せています。
ヤドリギの果実は、冬の間に鳥に食べられるのがたいていの運命です。果実が実るのはふつうは収穫の秋ですが、おそらく秋にはほかのおいしいものがいっぱいあって、鳥も秋の味覚を楽しんでいるものと思われます。秋のものがなくなって、冬に食いぶちを得ようとすると、そこにヤドリギがある、ということではないでしょうか。
ヤドリギの果実の内部は粘りがあって、種子はその粘り気につつまれているので、鳥に食べられてもそのままの状態で鳥の胃を経由して腸を通過し、粘液質の糸を引いたまま排泄されて樹上に落下します。
木の上に落ちた種子は、粘液によって樹上にくっついて、そこで発芽して樹上に根を下ろして、そこで新たなヤドリギとなるのです。
ひとつの種子から、こんなふうにうまい具合に樹上のヤドリギとして大株になるには、だいたい3年ほどかかるようです。