川内村観光協会

金銀花またの名を

1402金銀花

オリンピックの興奮さめやらぬ昨今でありますが、この植物は和名をスイカズラといい、金銀花とも呼ばれます。金メダル銀メダルの話題でにぎわっているからこの花があるのではありません。この花、わたしは美しく、また神々しいと思うのであります。

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この花は、別名を忍冬といいます。読み方は「にんどう」。冬を忍ぶ、そのままの、いい名前だと思います。この植物は5月から7月に花をつける常緑のツル植物なのですが、ツルは枯れないで冬の寒さに耐え、春に美しい花を咲かせます。
またこの植物は、古来より漢方薬として利用されていて、解熱、解毒、殺菌などを効能として売られてもいます。
金銀花という名前は、春になると白と金色花が咲くことからついた名前です。金銀貨と勘違いして喜んでいた人がいましたが、世の中、銭金に一喜一憂してはいけません。金がなくても、寒い冬を忍んで耐えていれば、春には花が咲くのです。

植物のすごさ。すごいフジ

1403割山

寒い冬の日、フジの木を見つけました。このフジの木がすごい。なにがすごいって、すごいんてす。どこから出ているのかを確認したら、あなたもびっくりです、きっと。

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このフジの木、コンクリートの吹付の水抜き穴から出てきているのです。栄養分もなにもないと思われる水抜きパイプですが、ここにたまたまフジの種が落ちて芽が出て、こんなに大きくなったのですね。すごいですねー。植物の力。
この木は、わたしの観察では10数年経っていると思われるんですが、10年前、フジの種が水抜き穴をめがけて飛び込んでくる、その瞬間を見てみたかったものです。そんな瞬間は見ようと思っても見られるものではありませんが、そんな光景を想像しながら木を眺めるのも、また楽しいものであります。

コブシの冬芽

1402コブシ

コブシが、雪の中で冬芽を育てています。山のコブシは春二番目に咲くといわれています。一番先に咲くのはマンサクで、これは3月中旬に咲きます。コブシは3月下旬から4月上旬。あと、もう少しで春がやってきます。

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コブシの冬芽は、ごらんのように、ダウンコートをまとっています。寒さから守るためですね。セレブのお姫さまと同じです。ふさふさ。
こんなふうにあたたかくしてもらっているから、美しい花が咲くのです。

1402コブシ

民話・坂シ内の地蔵さん

1402地蔵

川内村には信号が二つあります。上川内と下川内に一つずつ。今日は、下川内の信号のすぐ横にある、お地蔵さんにまつわる民話をご紹介します。坂シ内とは「サカシウチ」と読み、この信号のあたりの地名です。

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昔々、下川内の坂シ内というところで、ばんかだに大火事がおきたんだど。その時、赤い着物を着た子どもが屋根から屋根に飛び越えて、火の粉を消したんだど。それで、2軒だけ焼け残ったんだど。
それで、火伏の地蔵様として、まつるようになったんだど。

1402地蔵

坂シ内は、下川内の住宅密集地です。大火事ともなれば、なかなか大きな災害になったであろうと思われます。お話ができたのがいつのことなのだかはよくわかりません。だいたい240年から250前ではないかとわたしは思っているのですが、残った2軒がどこの家とどこの家だったのか、なんていまさら詮索してはいけません。
ちなみに「ばんかだ」とは夕方のことです。漢字で書くと夕方ならぬ晩方なのでしょう。
このお地蔵さん、大事に屋根に守られていますが、大きく傾いて見えます。もともとお地蔵さんには屋根などつけてもらえないものでした。近年になって、屋根をつけてあげようということになった際に民家の屋根をさけて作ったために、こんなふうに芸術的な屋根になってしまったのではないかと思います。
今回の大雪で屋根が崩れたりしたところも少なくないのですが、こちらのお地蔵さんの屋根はもともとこの形です。余談でありました。

紋所とフタバアオイ

1402フタバアオイ

「この紋所が目に入らぬか」
ってのはよく聞くセリフでありますが、さてこの葉はなんでありましょうか? 日光東照宮へ行くと、その周辺にいっぱい見かける植物です。

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正解はフタバアオイです。東照宮にあるフタバアオイは、あとになって植えられたものじゃないかと思っていますが、このフタバアオイ、この紋所が目に入らぬかのお言葉のとおり、これはまごうことなく、徳川将軍家の葵の御紋になった植物なのであります。
ちなみに、わたくし、秋元の家にも家紋があります。秋元家の紋は「秋元瓜」というもので、キュウリを輪切りにした切った紋になっています。
徳川家の御紋とはちょっとちがいますが、これが秋元家の紋所です。目に入れたくないかもしれませんが、お目にかけることにいたします。
此方におわす方を何方と心得る。
恐れ多くもはつおが行く総大将、秋元はつお公にあらせられるのだー。

1402フタバアオイ

宮ノ下の巳待供養塔

1402巳待供養

巳待供養塔、読みは「みまちくようとう」です。そのココロは、巳(み・へび)を待つ供養塔です。一番大きな供養塔は、明和7年に建てられたと記されています。明治ではありません。明和ですから、1770年ということになります。

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巳、へびは、雨の神様です。巳を待つ供養ですから、雨ごいのお願いということになります。当時の川内村も、今と同じく農業が生活の糧だったのでしょう。ここだけでなく、村のあちこちにあるのが、巳待供養塔です。
巳待供養塔の本尊は弁財天で女の神様です。巳の刻(午前10時頃)を待って弁財天を祈りことになっていたようです。弁財天を拝んだ者は、幸運に恵まれると言われていました。
田畑に水が必要なときや雨不足の時、地域の人が集まって拝んだりしたものでした。弁財天は水の守護神で農業の神様でもありますが、鎌倉時代以降は、七福神のひとりと数えられました。
昔々は、宗教儀式を扱える人が主導して、こういった供養塔をそこここに建てたものではないかと思います。でも近ごろは、ここでお祈りをしている人は、とんと見かけません。大きな声ではいえませんが、わたしもお祈りしたことはありません。あんまり雨が降らないようだったら、思い出してみたいと思います。

1402巳待供養

天山文庫なう

1402天山文庫

道路の改修工事をおこなっていたため、休館となっていたかわうち草野心平記念館が再開しています。でもその後、2週間続けて週末に降った大雪で、いつもは見られない雪化粧の天山文庫となっています。

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1402天山文庫

草野心平先生が愛した天山文庫は、こんな感じになっています。茅葺き屋根からつららが下がって幻想的姿です。

1402天山文庫

先生の指定席だった囲炉裏の部屋から見ると、つららが茅の色に染まって美しい色合いを見せています。冬の日に、心平先生もこんな色を眺めたことがあるかもしれません。

1402天山文庫

入口の様子はこんな感じ。大きな機械が入れないところであるのと、いまだ村内の主要道路の除雪作業が続いているので、こちらは手作業で歩く道路が確保されています。

1402天山文庫

あぶくま民芸館前の駐車場はごらんの通りクルマが入れる状態ではないので、もうしわけございませんが、北側の駐車場(現在は一部を川内村復興組合が使っています)をご利用の上、歩いてあぶくま民芸館までお出でください。まもなく雪も溶けるし、除雪作業も進むとは思いますが、今しばらく、よろしくお願いします。

フジの冬芽

1402フジの冬芽

紫の美しい花をつけるのがフジ。花を咲かせるのは4月中旬から5月中旬にかけてで、もちろん今は花も休眠中で、寒さにじっと耐えています。でも、フジもやっぱり、春の準備を着々と整えているのですね。

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冬芽とは、冬の芽のことですが、花になる芽と葉になる芽がありますが、これは花になる花芽です。で、花芽と葉芽を総称して、冬の芽を冬芽というのです。
ちなみに冬芽は「とうが」。花芽は「はなめ」。葉芽は「ようが」と読みます。ひらがなで書くと、植物用語はなかなか趣があって風流ですね。

1402フジの冬芽

けんこう造林

1402県行造林

本日は、けんこう造林についてご案内します。けんこう造林と言われれば、健康造林だとお思いでしょうが、残念でした。県行造林と書きます。県が管理する林の一部なのですが、県管轄の林にも、いろいろあるんですね。

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1402県行造林

県行造林は、あるいは分収造林なんて書いたりもします。県と森林所有者とが分収林契約を結んで造林し、木々を育てて伐採して、その収益を分けあうというシステムです。看板は新しいですが、記された日付をみると、大昔のものだとわかります。まだ林業が国の事業として盛んだった頃の制度なのですね。最近では森林浴などを楽しむために整備された山林も少なくないですが、この時代の山林といえば、材木を切り出して収入にしようという経済活動でした。
ここは、福島県と川内村が分収林契約をした場所です。山の中ですが、滝平1番地外6筆という詳細な住所表示も興味深いところです。
昭和12年といえば、ちょうど今年の2月1日で77年が過ぎたことになります。けんこう造林も77歳の喜寿を迎えて、ますます健康でいてください。

造林地所有者、造林を行う者、費用負担者の3者またはいずれか2者で分収造林契約を結び、その収益を分け合う森林である。

1402県行造林

取り壊し中の川内第二小学校

1402二小の取り壊し

川内村には、現在小学校が一つと中学校が一つありますが、現在の小学校ができる前は、村には3つの小学校がありました。そのうちのひとつが、川内第二小学校でした。その川内第二小学校が、このたび取り壊されることになり、現在、取り壊し作業が進んでいます。

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1402二小の取り壊し

第二小学校は、平成16年(2004年)3月に閉校になったあと、平成18年(2006年)4月に大智学園高等学校として再出発しました。大智学園は通信制の普通高校で、ここを本拠地として新宿区にも校舎を持ち、生徒さんたちは東京と川内村を行き来をしながら高校生活を送っていました。

1402二小の取り壊し

川内第2小学校は、上川内小学校として明治年間に開校し、昭和39年(1964年)6月に今の校舎ができあがっています。
明治6年に上川内字沢42番地(今の大智学園から少し離れたところ)に開校した上川内小学校は、男37人、女7人のあわせて44人が就学しました。生徒数はその後激増し、昭和24年には459名を数え、6学年で10学級を持つ大きな学校に育ちました。やがて児童数は減少し、昭和45年には220名、昭和48年に211人、47年に181人、49年に139人となり、閉校となった平成16年3月は64名でした。
第2小学校は、2011年3月の震災時に大きな損壊を受けて、修復がむずかしいことにより取り壊しが決まったものです。

1402二小の取り壊し

体育館は校舎に遅れること2年の昭和41年3月に完成しましたが、現在体育館は手作り家具の四季工房さんがそのまま使っています。こちらは地震の被害がごく少なかったため、そのまま残されることになっています。

1402二小の取り壊し

旅館小松屋さんの玄関に保存されている第2小学校の校章

たまたま、天山文庫方面から川内第2小学校方向を見た写真がありました。下の写真がそれで、2013年5月に撮影したものです。校舎の端の部分のモルタル壁が落ちてしまっているのがわかると思います。
川内村で最も早く開校した小学校ですが、今、ひっそりとその姿を消そうとしています。

1402二小の取り壊し

2013年5月の二小の様子

最後に、昭和31年9月に制定された校歌をご紹介します。川内村の小中学校の中では一番早く校歌が制定されたため、唯一草野心平作詞でない校歌が、この川内第二小学校校歌です。

作詞:作山美八
作曲:紺野五郎


朝ぎり 晴るる 大滝根
夕月 うかぶ 木戸川よ
平和の里に今日もまた
歓びの歌 わき立たん
ああ 川内第二小学校

緑の野辺の 涼風に
仔馬(こま)のむれの むつましさ
われらも共に 手をとりて
学びの庭に いざ むかん
ああ 川内第二小学校

嵐も雪も のりこえて
やがては国の 柱ぞと
希望も高く 朗らかに
若木の如く 伸びゆかん
ああ 川内第二小学校