川内村観光協会

爆心地

1405爆風スランプ

あと5日で太平洋戦争終戦という、昭和20年(1945年)8月10日、
川内村上川内にB29爆撃機が襲来し、焼夷弾を落とした。
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そしてB29から機銃掃射しました。

上川内町分地区23戸中、19戸が焼失し、3人が死亡、被爆で怪我した人が2人という
痛ましいことがあった所に石碑が立っています。

松尾芭蕉 川内に来ていた?

–>1405ばしょう

上川内字遠上(とうがみ)にある、国見太子堂境内に、
松尾芭蕉の句碑があります。

「志ばらくは 花の上なる 月夜かな」
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教育委員会、知識人とかへ聞きましたが、
誰もわからなくて、ようやくわかりました。

これは、上川内字国見の渡辺某なる人が、芭蕉に恋焦がれ、
句碑を明治時代にたてたもので、残念ながら川内に芭蕉は立ち寄っていませんでした。

宮ノ下の巳待供養塔

1402巳待供養

巳待供養塔、読みは「みまちくようとう」です。そのココロは、巳(み・へび)を待つ供養塔です。一番大きな供養塔は、明和7年に建てられたと記されています。明治ではありません。明和ですから、1770年ということになります。

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巳、へびは、雨の神様です。巳を待つ供養ですから、雨ごいのお願いということになります。当時の川内村も、今と同じく農業が生活の糧だったのでしょう。ここだけでなく、村のあちこちにあるのが、巳待供養塔です。
巳待供養塔の本尊は弁財天で女の神様です。巳の刻(午前10時頃)を待って弁財天を祈りことになっていたようです。弁財天を拝んだ者は、幸運に恵まれると言われていました。
田畑に水が必要なときや雨不足の時、地域の人が集まって拝んだりしたものでした。弁財天は水の守護神で農業の神様でもありますが、鎌倉時代以降は、七福神のひとりと数えられました。
昔々は、宗教儀式を扱える人が主導して、こういった供養塔をそこここに建てたものではないかと思います。でも近ごろは、ここでお祈りをしている人は、とんと見かけません。大きな声ではいえませんが、わたしもお祈りしたことはありません。あんまり雨が降らないようだったら、思い出してみたいと思います。

1402巳待供養

商工会本館の取り壊し

1402旧商工会館

このサイトの母屋は川内村観光協会で、事務所は川内村役場の向かいの商工会の中にあります。ここに商工会が来る以前は、役場の反対側の商工会館が、商工会事務所でした。その商工会館が今取り壊し作業を受けています。

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この商工会館は、老朽化もしていたし、誰にも使われていない建物でしたから、痛みも激しかったのだと思います。2011年3月の地震で壁が崩れたりしていました。お気の毒に、たまたま建物の横に止めていた役場の職員の愛車が落ちてきた壁のがれきの直撃を受けたりもしたものでした。
壁のほとんどが崩れ落ちた建物も、ようやく取り壊しになって、現在作業中。白いシートの中では、取り壊しのつち音が響いています。今、村を離れていても、商工会会員として、この建物にお世話になった人も少なくないのではないでしょうか。取り壊し前の会館内部には、きのこまつりなど、昔日のお祭りの看板などが保存されていて、時代を感じさせられたものです。

1402旧商工会館と

取り壊しが進んでみると、この周囲に、いくつかの石碑が並んでいるのがあらためて目立って見えてきます。開館前の白い石碑は川内村開拓記念碑です。1970年代の厚生大臣で福島県出身である斉藤邦吉厚生大臣の名前で立てられています。
その隣のでっかいのが土地改良記念碑、2012年3月11日の桜の植樹を機してのさくらプロジェクト3.11の看板をはさんで造林記念碑と並びます。造林記念碑は倉石忠雄農林大臣の名前で立てられています。
斉藤大臣も倉石大臣もいずれもすでに故人となられていますが、やはり故人となられているであろう川内村の先人たちにも敬意を表しつつ、お世話になった商工会館を見送りたいと思います。

1402百葉箱

一番左、川に近いところにはこんなのもありました。昔懐かし百葉箱。これは、今回のお話とは関係なくて、おまけです。重要なものですけどね。

川内村百周年モニュメント

2014年の百周年の碑

川内村コミュニティセンターの駐車場の一角に、こんなモニュメントが立っています。実はこれ、ちょっと前までは道路のど真ん中に立っていたのですが、村が帰村をするのとと気を同じくして、場所を移動したのでした。

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モニュメントは、正しくは「村制施行100周年記念モニュメント」といいます。川内村は明治22年に誕生しています。明治22年は1889年で、上川内村と下川内村が合併して、川内村となったのでした。
それから百年後、村ができて100周年を記念して、このモニュメントが立てられました。100年は1989年の平成元年。モニュメントが完成したのは11月のことでした。
高さ2.6メートルで3本のステンレス柱が1メートルの本村産の白御影石(しろみかげいし)製の三つの円盤を支えている石の造形物で、三つの石の円盤は村民の融和を表し、その円盤は斜め上に向かって開き、村の振興と発展を意味しているそうです(看板に、そう書いてあります)。
このモニュメントの、昔の写真があったので、あわせてご紹介しておきます。2011年3月12日、富岡町から避難した人たちでごった返している役場周辺の写真ですが、右端に、このモニュメントが写っています。役場の裏のここは、ロータリー交差点みたいになっていたのですね。
今は、ここに橋が架かろうとしていて、モニュメントの移動は、橋の新設によるものだったのです。 

2011年の百周年の碑

精九郎檀とブナ

1307精九郎

現在では、川内村と田村市の境ということになるのですが、田村市滝根町和田山に、推定300年くらいのブナの大木があります。その大木の周囲に、無数の小石が置いてあります。それが、精九郎檀です。田村市指定の天然記念物となっています。

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1307精九郎

それは昔々、別の伝説によると江戸時代のことではないかと思われるのですが、川内村と神俣村(現在の田村市滝根町)とで境界争いが起こりました。その際、正しい境界はここであると示したのが、精九郎という男でした。その証言によって、争いは神俣村側が優位に立つことになって、川内村側は負けてしまったのでした。
しかしこの精九郎という男、実は川内村の男でした。川内村の男のくせに川内村が不利になる証言をしたということで、精九郎は首だけ地上に出して生き埋めにされてしまったということです。
精九郎が埋められながらに生きている間は、川内村と神俣村、両方の村から食物が運ばれていました。その際、精九郎は「川内村と神俣村の両村が見えるところに埋められて満足だ。死んだら大きい石碑を建ててくれ」と言っていたそうです。
やがて精九郎は絶命することになるのですが、しかし山の頂上は不便なため、石碑を建ててくれる人は現れません。そこで両村の人々は、精九郎の霊をなぐさめるため、行く人来る人せめてもと、小石を供えていったのだというのが、精九郎伝説です。
この伝説は、あらましが現地に残されていますが、なぜか一部が消えてしまっています。まるで検閲を受けて消されてしまったかのようですが、そんなことはないはずです。一部が書き換えられているのは、滝根町が合併して田村市となったからだと思われます。

1307精九郎

ブナの大木は推定樹齢およそ300年。幹まわりは3.5m、高さ10.2m、全体の枝張り19.3mとなっています。川内村の方角である西方向からの強い風に耐えるように、枝全体が傾いて立っているのが特徴です。
このブナが立っているのは、川内村と田村市との境界のほんの少し田村市よりです。つまりこの旧跡は田村市の敷地にあります。
精九郎が証言した境界は、どうやらそれが正しい境界だったようで、川内村側は負けるべくして負け、精九郎は正直者だったということになります。
正直者が生き埋めに去れてしまうのですから厳しい世の中だったということになります。しかしこれは伝説ですから、後世の人がねりあげたお話である可能性が高いです。田村市(神俣村、あるいは滝根町)の旧跡ですから、伝説の想像主はそちらの方だったのではないでしょうか。
当然、精九郎檀について川内村の歴史は残されていないのですが、わたしとしては、これが川内村の伝説なら、川内村の精九郎が生き埋めになるには、なにか隠れた秘密があるような気がしています。ブナが川内村より神俣村側に立っているあたり、もしかすると精九郎の証言はまちがいで、正しい境界はブナのところだったのではないかというのはどうでしょう?
現在は滝根小白井ウインドファームという風力発電所となっているこのエリア、精九郎にすれば石碑でなく、もっと大きな風車に見守られることになってしまい、びっくり仰天ではないかと思います。
この地へのアクセスも、滝根側から行ったほうがはるかに容易ですが、川内村からも来られないことはありません。
肝心の檀(お墓という意味と思われます)は薮に包まれてしまい、たくさんの小石が積まれている様子も、この季節ではよく見せてもらえませんでした。大きな石碑も建ててもらえず、草ぼうぼうのところで眠る精九郎という川内の男は、つくづくかわいそうだなと思いますが、いつか川内村側から書いた精九郎伝説異聞が登場したらおもしろいものです。
薮の中に小さな祠がありますが、精九郎は小さな祠から、なにを見つめているのでしょうか。

1307精九郎