川内村観光協会

はつおが行く!

村の迷・里山博士、秋元はつおが川内村を探検します。世界的にも珍しいもの(ほんとか?)、川内村ならではのほっこり名所、いろいろあります。今後も増えます。はつおさんに、案内してもらいましょう!

アセビの冬芽

1402アセビ

馬酔木と書いてアセビと読みます。毒のある植物で、馬も酔っぱらうようになってしまうからこんな名前になっているとのことですが、今の季節はやっぱりひっそりと冬ごもりをしています。花が咲くのは、このあたりでは4月初めから5月中旬。まだまだ、もう少し先のことになります。
このアセビの冬芽が、これです。やがて春になれば白やピンクの花をつける美しい花ですが、シーズンオフはこんなふうに赤いつぼみをつけて、春を待っています。色のないさびしげな冬の風景ですが、こんな色もあるのです。
つぼみになる前の状態を花芽(はなめ。あるいはかがとも読みます)といい、冬の風物詩でありますので、冬芽(ふゆめ、とうがとも読みます)と呼んでいます。

橋建設中

1402橋の工事

なんだか、工事の話題ばっかりが続いています。このところ、川内村ではさまざまな工事が日常茶飯事になっているのです。本日ご紹介するのは、役場前の橋りょう工事(に関係する取り付け道路工事)です。

(さらに…)

1402橋の工事

村の大動脈は、もちろん国道399号線です。下川内から上川内まで、木戸側沿いを南北に走っています。川内村役場は、この国道399号線から木戸川を渡ったところにあります。そして村役場の裏手に、間もなく再オープンする温泉施設かわうちの湯があります。国道から橋を渡って役場を回り込むようにしないとたどりつかないため、初めて温泉に来る人が迷ったりすることもあるようです。川向こうを見渡していただければ、明かりがそびえ立っているのですが。
だから、というわけではないでしょうが、役場の北側からかわうちの湯に向かってまっすぐの道を作ろうというのが、この橋です。この橋ができれば、役場の敷地を抜けるようにすることなく、まっすぐ温泉に迎えます。温泉の先には広い道路がすでにできているので、こちらが近い将来の幹線道路になるのかもしれません。
この工事は、震災以前から始まっていたものなので、思えば長い工事になっています。でも、もうすぐですね。

1402橋の工事

商工会本館の取り壊し

1402旧商工会館

このサイトの母屋は川内村観光協会で、事務所は川内村役場の向かいの商工会の中にあります。ここに商工会が来る以前は、役場の反対側の商工会館が、商工会事務所でした。その商工会館が今取り壊し作業を受けています。

(さらに…)

この商工会館は、老朽化もしていたし、誰にも使われていない建物でしたから、痛みも激しかったのだと思います。2011年3月の地震で壁が崩れたりしていました。お気の毒に、たまたま建物の横に止めていた役場の職員の愛車が落ちてきた壁のがれきの直撃を受けたりもしたものでした。
壁のほとんどが崩れ落ちた建物も、ようやく取り壊しになって、現在作業中。白いシートの中では、取り壊しのつち音が響いています。今、村を離れていても、商工会会員として、この建物にお世話になった人も少なくないのではないでしょうか。取り壊し前の会館内部には、きのこまつりなど、昔日のお祭りの看板などが保存されていて、時代を感じさせられたものです。

1402旧商工会館と

取り壊しが進んでみると、この周囲に、いくつかの石碑が並んでいるのがあらためて目立って見えてきます。開館前の白い石碑は川内村開拓記念碑です。1970年代の厚生大臣で福島県出身である斉藤邦吉厚生大臣の名前で立てられています。
その隣のでっかいのが土地改良記念碑、2012年3月11日の桜の植樹を機してのさくらプロジェクト3.11の看板をはさんで造林記念碑と並びます。造林記念碑は倉石忠雄農林大臣の名前で立てられています。
斉藤大臣も倉石大臣もいずれもすでに故人となられていますが、やはり故人となられているであろう川内村の先人たちにも敬意を表しつつ、お世話になった商工会館を見送りたいと思います。

1402百葉箱

一番左、川に近いところにはこんなのもありました。昔懐かし百葉箱。これは、今回のお話とは関係なくて、おまけです。重要なものですけどね。

民話・研屋作

1402館山全景

本日は、川内村の民話をひとつご紹介します。これら民話は、川内村村史民族篇(昭和63年発行)に記録されています。まずは下川内の館山公園付近に残されているお話です。写真はすわの杜公園付近から見た館山全景です。お題は「研屋作」。とんやさく、と読むのだそうです。館山の北の方の沢に、研屋作という地名が残されているということです。

(さらに…)

むかしむかし、若い男の研屋が川内に来ただど。村にはめんごい娘がいで、その娘ど研屋が仲よくなったど。
したら村の若者が妬いで、研屋を無理矢理山に連れ出して、首だけ出して埋けちまっただど。
そんでこの場所のことを研屋作と呼ぶようになったんだと。

研屋とは、刃物などを研ぐ(とぐ)商売です。包丁やナタなど、刃物を使っている人は多かったと思いますが、刃物の手入れをする人は村には少なかったのでしょうか? このお話に登場するのが研屋さんであるというのは興味深いところです。
「めんごい」とは「かわいい、美しい」という意味です。方言ですが、北関東から東北まで、比較的広く使われている方言です。
「いで」「妬いで」というのは「いて」「妬いて」ですが、語尾が濁るのは、これも方言です。
首だけ出して埋めてしまった、というお仕置きは、どこかで見たことがあります。「精九郎檀とブナ」というお話を紹介したことがありますが、なんだか似たような結末ですね。
研屋はとぎやですが、研屋作はとんやさくと読みます。研屋をとんやと読むのかもしれないし、じいさまたちに言い伝えられているうちになまってしまったのかもしれません。なんでとんや「作」なのかはわからないのですが、もしかしたら研屋をとじこめたという意味の「研屋柵」ではないかという気もするのですが、今となっては確かめようがありません。
ちなみに研屋作という沢がいったいどこにあるのかは、さっぱりわかりません。土地の長老に聞くと「あっちだ」と教えてくれるのですが、連れていってやるという人は誰もいなくて、ひとりで山に入ってもさっぱりわからず。
民話だから、今回は謎のままおしまい、ということにさせていただきます。

川内村百周年モニュメント

2014年の百周年の碑

川内村コミュニティセンターの駐車場の一角に、こんなモニュメントが立っています。実はこれ、ちょっと前までは道路のど真ん中に立っていたのですが、村が帰村をするのとと気を同じくして、場所を移動したのでした。

(さらに…)

モニュメントは、正しくは「村制施行100周年記念モニュメント」といいます。川内村は明治22年に誕生しています。明治22年は1889年で、上川内村と下川内村が合併して、川内村となったのでした。
それから百年後、村ができて100周年を記念して、このモニュメントが立てられました。100年は1989年の平成元年。モニュメントが完成したのは11月のことでした。
高さ2.6メートルで3本のステンレス柱が1メートルの本村産の白御影石(しろみかげいし)製の三つの円盤を支えている石の造形物で、三つの石の円盤は村民の融和を表し、その円盤は斜め上に向かって開き、村の振興と発展を意味しているそうです(看板に、そう書いてあります)。
このモニュメントの、昔の写真があったので、あわせてご紹介しておきます。2011年3月12日、富岡町から避難した人たちでごった返している役場周辺の写真ですが、右端に、このモニュメントが写っています。役場の裏のここは、ロータリー交差点みたいになっていたのですね。
今は、ここに橋が架かろうとしていて、モニュメントの移動は、橋の新設によるものだったのです。 

2011年の百周年の碑

動物も迷走

1401足跡

なんの足跡でしょうか。先日、雪の平伏沼を見に行ったときの道中で見かけたものです。もしかすると、歩いたあとにまた少し雪が降って、わかりにくくなっているのかもしれません。ウサギなのかイノシシなのか犬なのかタヌキなのか、ライオンやゾウではないとは思いますし、おそらくテンではないのではないかと思うのですが、冬の雪原は、動物の痕跡がはっきり見えて、おもしろいです。

(さらに…)

1401林道の足跡

道の左側は崖になっています。これもテンでしょうか? 道の端から端までふらふら歩いてきて、おっと、ここは崖だぞと思い直して引き返しています。できることなら、崖だと知って少しあわてた様子を盗み見してみたかったと思います。

思い出の整理

1401民家の取り壊し

村では今、家屋などの取り壊し作業がそこここで行われています。震災から間もなく3年。原発事故からの復興にはまだまだ先が長い道のりが待っている村ですが、村の人たちは、次なるステップに向けて動き始めてもいるようです。

(さらに…)

震災当時には、民家が大きく損壊を受けたという情報はなかったのですが、しかし当時はすぐに避難などしたために、隠れた損傷に気がつかずにいたというケースや、長く避難生活で家を空けているうちに、すっかり傷みが進んでしまったケースなど、いろんな場合があるようです。村には古い民家が数多く残っていたのですが、そんな民家でも、取り壊し作業が始まっていました。
古い民家を維持してくのはたいへんですし、まして震災で損壊を受けたのを修復しながら維持するとなると、いろいろな意味でさらにたいへんです。村の家並みがこういう状況で変化していくことはちょっぴり残念な気もしますが、取り壊されたあと、家並みがどんなふうに変化していくことになるのでしょうか。
下の写真は、震災前に村の唯一のカフェとして人気を博していたカフェ・ダノニーの跡地です。ダノニーは背後の法面が崩れ、お店の背後から土砂の侵入を受けてしまったという、目に見える村最大の震災被害を受けた家屋でした。ここも、震災以降休業となっていましたが、このほど解体工事が完了し、更地になったところです。
震災前に村に遊びに来た人の中には、ダノニーでひとときを過ごしてゆったりとして時間を過ごしたひとも少なくなかったはず。震災前の思い出が、ひとつひとつ、消えていきます。

●休業中のカフェ・ダノニーのWEBサイト

1312ダノニー跡

冬の平伏沼

1401平伏沼

モリアオガエルの繁殖地として天然記念物となっている平伏沼の、冬の様子です。道は雪に埋まっています。

(さらに…)

この時期、平伏沼にでかける人はいませんし、平伏沼に行く用事もありません。なので除雪はしていません。行けるところまでクルマで行って、進めなくなったところからは雪中行軍です。
川内村は、けっして多くの積雪があるわけではありませんし、今年は特に雪が少ないように思います。それでもこの時期の、しかも標高が高い平伏沼のことですから、一度降った雪は、溶けることなく行く手を阻んでいるのです。

1401平伏沼

駐車場から沼までの遊歩道は、さらさらの新雪で、足跡ひとつないと思いきや、先客がいました。イノシシさんとウサギさんのようです。写真は、残念ながらわたしの足跡も残っています。沼に向かって歩いているときには、写真を撮る元気がなかったのでした。

1401平伏沼

モリアオガエルさんたちがどこにいるのかはさっぱりわかりませんでした。雪が少ないと、また夏になって沼の水が干上がったりするんじゃないかと心配になったりしますが、カエルさんたちも元気に暮らし続けてほしいものだと思います。

ヤマユリのさや

1311ヤマユリのさや

川内村は、ヤマユリの咲き乱れる村です。夏の日には、村のそこここにヤマユリが咲き乱れる姿が見られるはずです。もちろん、今の季節、ヤマユリの姿を見ることはできませんが、実は秋には、こんな姿を見ることもできます。それで思い出したことがありました。

(さらに…)

昔々、もう15〜16年前のことになるでしょうか。近所のおじいさんが、ヤマユリの種を大量に山から掘り出してきたということがありました。なにをするやらと思いきや、神奈川県の三浦半島に嫁いでいった娘のところに送ったのだそうです。なんでも関東地方では、ヤマユリが高いお値段で取引されているとかで、娘さんは三浦の畑に川内村のヤマユリを植えて、市場に出してみようとしたようなのですね。
実はヤマユリは、川内村(ばかりでなく東北地方全般)にはたくさん咲きますが、関東地方、北陸地方、そして北海道には自生しないユリなんだそうで。関東の嫁さまは、ヤマユリを育てたくてもそのタネがなかったのですね。
おじいさんの娘さんの商売がうまくいったかどうかは、定かではありません。おじいさんがヤマユリを求めて山を掘り返す姿はそれきり見られなくなったので、ご商売もそれなりだったのではないでしょうか。
山の花は掘り返さないで、そのまま鑑賞しましょうね。はつおからの、お願いです。

1311ヤマユリのさや

セキレイの巣

1401セキレイの巣

枯れ木にゴミがからまっている……ように見えると思いますが、そういう話でもあり、そうでもない話でもあり。ほんとうは、鳥の巣のお話です。

(さらに…)

ここは空き家になっている民家の敷地内。植木に巣を作っているのは、セキレイです。人間が捨てていったブルーシートの切れっぱしや草をうまく利用して巣を作っています。鳥は人間とちがって、すみかを1年ごとに更新しています。同じ家に何年も住むことはないわけです。なのでこの家も、来春は空き家になっていることでしょう。今度は、どこで子育てをするのかな?

1401セキレイの巣