川内村観光協会

巳待供養の蜂の巣

1403舘屋巳待供養

猪狩さんの舘があったという上川内字舘屋ですが、その角に、こんな石碑があります。巳待供養です。以前に紹介しましたが、雨ごいの神様です。しかし今日は、そんな大切な石碑に居候を始めた連中のことをお話します。

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1403舘屋の蜂の巣

これ、オオカバフ・スジドロバチなる蜂です。スズメバチのように人間を刺したりしない蜂で、なかなかおもしろい蜂です。
おもしろいというのはどういうことかと申しますと、煙突のあるような形状の形の巣を作って産卵します。
親はハマキガやメイガなどの幼虫をつかまえてきて子孫のために巣に持ち込んで、しかしそのあとがおもしろい。親はエサを与えると部屋をふさいでしまい、その後はもう幼虫のめんどうを見ません。育児放棄みたいですが、こちらは大昔からそうやってきた神様の決めた本能です。逮捕されることもありません。
子どもたちは、大きくなると泥を食い破って外に出てくるのです。ちょっとたいへんそうですが、逆に、天敵にやられることは絶対にありませんから、安心この上ありません。そういう意味では、育児放棄なんてとんでもない、究極の過保護育児かもしれません。
さてはて、そしてこの巳待供養ですが、なんとこんなところにも巣を作っているのです。石の上にも三年といいますか、石の上にも泥の巣です。

舘屋、その歴史と由来

1403舘屋

今回は、地名の由来を調べてみることにしました。ここは上川内字舘屋です。舘屋とは、いったいなんでありましょうか。

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舘というのは、お侍さんの陣のことのようで、お城というほどの規模はなし、かといって戦のさなかに臨時で設営する前線基地でもなく、もうちょっとしっかりした、平屋の砦風のお城のことを舘と称すのだといいます。
館という字も、舘と書いたり館と書いたりいろいろのようで、どっちが本当なのかよくわかりません。どちらも本当なのかもしれません。
時代的には戦国時代から江戸時代の始まる前までのお話です。田村地方やいわき地方への道中で、政略的にも重要な場所だったのだと思います。館を構える理由がこのへんにありました。
館の主は猪狩氏といって、当時、広野町の高倉山に城(舘)をかまえて楢葉郡を支配していた大名です。猪狩氏は西暦1600年以前に現在のいわき地方を統治していた大名の岩城氏の家臣でしたが、徳川幕府の成立時に徳川家康の怒りを買ってしまいました。いわき市一帯を支配していた岩城氏の親戚筋であり、茨城の城主である佐竹氏とともに関ヶ原の合戦に参戦しなかったからというのがその理由ですが、戦国時代にどちらの軍につくかというのはむずかしい判断だったのだと思います。
これで徳川の怒りを買った佐竹氏は秋田に転封(転勤ですね)となって、岩城氏はとりつぶしとなってしまいました。行き場のなくなった岩城氏の家臣や親戚筋は秋田氏を頼って今の秋田県に移り住むことになってその後に至っています。
今、双葉地方には、猪狩さんという姓は多くお住まいですが、川内村にも多くの猪狩さんが住んでいます。そしてその中の数戸に、1600年以前のものと思われる家紋入りの鞍を持っている家があるのです。猪狩氏一行が秋田方面に出ていったあと、この地に土着した家来衆の鞍にちがいありません。下の写真は、川内村村史に掲載されている猪狩氏所蔵の家紋入りの鞍です。

1403舘屋の鞍

ふれあい春の集いin表郷

1403表郷1403表郷

3月9日、福島県白河市スパーク表郷にて、ふれあい春の集いin表郷が開催されました。これに川内村商工会も参加してまいりました。

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表郷ボランティア交流フェスティバル実行委員会の主催で、ボランティアのネットワークを作って防災と復興をテーマとしたイベントです。
ゲームやトークショー、ライブなど、ほのぼのとした時間が流れました。
復興支援ブースには、川内村のほか、南三陸町や大堀相馬焼などが参加して、にぎやかな1日となりました。

トチ

1403とち

トチが春を迎える準備をしています。トチは、昔々の貴重な食材でした。

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米作が伝わる以前は、古代の人たちはなにを主食にしていたかというと、そのひとつがトチの実でした。しかしトチの実は、そのままではアクが強くて食べられません。そこでトチモチの登場です。福島県内では、会津地方に行くとよく売られているもので、わたしの大好物でもあります。
そのトチの木は、モチ以外にも街路樹になったり公園木になったりします。フランスはパリのシャンゼリゼ通りにはマロニエの街路樹が並んでいますが、マロニエはトチノキと同一人物です。トチノキが日本語、フランス語になると、マロニエです。
そのトチノキ、冬芽はねばねばしているので、すぐわかります。

1403トチの木

馬頭観音

1403馬頭観音

いま、川内村に馬の姿はありません。でもかつて、川内村と馬は、切っても切れない関係にあったようです。そんな名残が、村のあちこちにある観音様になって、残っています。

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江戸時代、延亨4年(1747年)、領主に提出した資料があります。それによると、上川内村には192戸があり、人間が972人、馬が358頭となっています。同じく下川内村は205戸、人数1,047人、馬が342頭となっています。馬と人が、同じように届けるべきものだったわけですね。
馬は江戸時代には農耕馬として、そして明治以降は軍馬として大事にされ、川内村はその生産基地として名をはせたのでした。
そんな大事な馬が不慮の死をとげたり、あるいは自分の家で家族のように暮らした大切な馬が死んでしまったときなど、供養のために立てられたのが馬頭観音、馬頭観世音です。

1403馬頭観音

下川内字原にあるこの馬頭世音は、すでに摩耗していて年代もわかりません。江戸時代か明治時代のものか、さて? どなたが作ったのかもわかりません。でもここには、石塔の隣に、こんなふうにかわいい馬がいます。誰がいつ作ったものか、知りたいところですね。
ちなみに馬産地川内には108基の馬頭尊の石塔があります。

ミズキの木の春

1403ミズキ

赤い冬芽が、雪の季節に映えています。色のない季節に、こんな赤い冬芽を見るのは、それだけでうれしい感じがします。

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1403ミズキ

ミズキはやわらかい木で、その名前のとおり、木を切ると水がいっぱい出てきます。水の木。だからミズキという名前がつけられています。

1403ミズキ

この木はなんといっても、みなさんがご存知のところでは「こけし」です。この木はこけしになる木なのです。きっとみなさんのおうちにも、ひとつふたつのミズキから作られたこけしが存在するのではないでしょうか。こけしのほか、印鑑や杖にもなります。
新春におもちをぶらさげて飾る稲穂つけ(いなぼつけと濁って発音することもあるみたいです)には、このミズキの木がないとできあがらないといわれています。

1403ミズキの団子さし

福寿草咲きました

1403福寿草

雪が降ったり凍りついたりと、あいかわらず寒い日が続く川内村ですが、それでも春はわが川内村に、一歩一歩近づいてきています。春を告げるフクジュソウが咲いているのを発見です。川内村にひと足早い春。わくわくしてしまいます。

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フクジュソウの花言葉は「幸福を招く」。その名も福寿の草ですから、なんとも縁起がいい花です。ごぼうのような根っこは強心作用や利尿作用があるとされていますが、そんな科学的なことやら言い伝えや名前ではなく、この花を見れば問答無用で幸せな気持ちになる。だからこそ福寿草という名前がついているんだと思います。
個人のお宅のお庭ですが、小さな春を見つけましたので、道端からそっとのぞかせてもらいました。

1403福寿草

川内村のレーダーサイト

1403自衛隊

川内村には、航空自衛隊の通信基地があります。日本屈指のレーダーサイトを擁し、日本の安全を守っています。

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大滝根山分屯基地という名のとおり、川内村が背にしているあぶくま山系の最高峰、大滝根山の頂上一帯にあります。大滝根山の山頂三角点は、自衛隊の敷地内にあるのです。
ここでは、日本に侵入する弾道ミサイルや航空機に対し、24時間態勢で警戒監視などをおこなっています。
敷地は全域が川内村分になり、独身の隊員はここに駐在して寝泊まりをしているということですが、標高1000メートル以上あるところですから、冬は厳しい気候にさらされます。航空自衛隊WEBサイトによると、過去10年間の2月の平均気温は-5度、最低気温は-18度となっています。

1403自衛隊

ゼンマイの芽吹き

1304ゼンマイ

これは川ゼンマイと呼ばれるゼンマイです。下川内の木戸川第一発電所の近くで見つけたゼンマイの芽吹きをご紹介します。

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ゼンマイは、川沿いの大きな岩に出てくるタイプと、山の斜面に出るタイプとがあります。川沿いの岩に出るのを、川ゼンマイなどというのです。
最初の写真は、芽吹いた頃のゼンマイです。下の二枚目の写真は、みなさんよくご存知のゼンマイの姿ですが、これは芽吹く前の姿で、つまりゼンマイは芽吹く前に食べるもの、なのです。
山奥に山菜取りに行けない人たちが、よく大きな河川の岩を渡り歩いて川ゼンマイをとろうなどというのはたいへん危険な収穫作業になります。ゼンマイ取りにはくれぐれもご用心を。

1304ゼンマイ

放射能検査室新築工事

1403検査室工事

上川内前谷地地区で、こんな工事をやっていました。食品放射能測定場建設委託事業とむずかしいプロジェクトの名前がついていますが、食品の放射能検査をして、村人の安全を守ろうという施設です。

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これまで、川内村には食品放射能測定場が7ヶ所ありました。第一区から第七区まで、各行政区に1ヶ所ずつで、それぞれ各地区の集会所に間借りするかたちで運用されていました。第八区は、いまだ居住ができず耕作もできないので、検査場も開設されていません。
これが4月から再編成されて、村に4ヶ所に集約されることになりました。第一区、第三区、第五区、第六区の4ヶ所です。そして今度は、集会所の間借りではなく、専用の検査室を設けることになり、その新築工事が、これです。第五区は集会所を新築したところで、取り壊した小学校の教員住宅が残っていたのでそれを使うことに。第六区は集会所をふたつ持っているので、そのひとつが検査場となります。残る二つは、新たに建物を新築して検査を行います。
検査場は、基本的には検査機やコンピュータが置ければいいのですが、現在の検査方法では食品を均一化させる必要があるため、液状にしたりジューサーにかけたりといった台所仕事も必要になります。ということで、お風呂こそありませんが、そこそこの一軒家ができ上がることになるわけです。

1403検査室工事