川内村観光協会

舘屋の馬頭尊と馬頭観世音

高さ60cm (馬頭尊)
高さ46cm (馬頭観世音)

馬頭観世音
馬産地川内には、108基の「馬頭尊」の石塔を確認している。
馬が不慮の災難にあった場所や、自分の家で大切にしていた馬が死んだ時に、供養のために建てられることが多い。
高田島の後谷地には、昭和34(1959)年に造立された馬頭尊の石塔がある。これは、軍馬に徴用された馬の供養のために、後になって建てたものだという。
上川内の早渡には、国有種馬種付畜主一同が造立した「馬頭観世音」がある。この辺一帯は牧草地で、種付場があったので建てたという。小安川の馬頭尊のある所では、必ず馬が転んだ場所なので、俗称「駒ころばし」といわれる。
このように、いわくつきの場所には必ずと言ってよい程、馬の供養塔が建てられたのである。

下川内舘屋の馬頭尊と馬頭観世音

中里の石碑群

高さ108cm (二十三夜供養塔)
高さ138cm (庚申塔)
高さ77cm (庚申供養塔)
高さ67cm (大山祇命)

二十三夜供養塔
宝暦11(1761)年より昭和6(1931)年のものまで、川内には10基の二十三夜塔が確認されている。勢至菩薩を本尊とする二十三夜は、単に『三夜様」として親しまれ、安産や子育ての神として信仰されている。
また、この神を信仰すると金銭に不自由しないとも言われ、相馬地方にあっては蚕神としての信仰も見られる。産神(さんじん)の音読みからくる発想であろうか。
下川内の成田不動尊境内には、田ノ入の渡邉ツタイ刀自が昭和7(1032)年に造立した二十三夜塔がある。渡邉栄三郎氏の話によると、ツタイ刀自は二十三夜様を信仰した人で、毎月23日には月のあがるまで起きて拝んだという。

庚申供養塔
庚申は「かのえさる」の日で、60日に一度めぐってくるが、かのえさるの年というと60年に1度になる。庚申の夜に眠ると三尸の虫が体内からぬけ出て、天帝にその人の罪を知らせるので命を奪われる。だから、この夜には近隣の人たちが集まって、眠らないで夜を明かした。
川内では、この講中は全く姿を消してしまったが、石塔よりするとかつては下川内の町・小田代・宮渡・宮下で行われたことがあり、上川内では向原・遠上・中島の人たちが講を組み、三組合同の庚申塔をたてた。中でも遠上では、若者組がこの塔を造立している。
庚申は道教より出たものであるが、わが国では早くから広まり、枕草子などにも書かれている。庚申の夜は、夜を徹して語り明かしたので、普通の日に面倒な話になると、「その話は庚申の晩に」といわれる程、江戸時代になると庚申信仰は庶民の間に広まった。
庚申=猿田彦神という観念から、道案内・旅行の神とされたり、猿の信仰とも結びついて猿を神使とする山王大権現と同一視されたりしたのである。従って馬の守護神として、眼病平癒の祈願としても信仰された。このように、庚申は種々の信仰と重なって庶民の間に伝わったのであった。
川内には、宝暦5(1755)年までの庚申塔30基を有するが、どのような祈願をこめて造立されたものであろうか。
上川内字久保の庚申塔は大正14(1925)年に造立されているが、ウブズナ様として祀っているらしい。また、川内村の庚申塔を見ると、台座に三猿あるいは二猿を描いたのは数基あるが、青面金剛像は一基もなかった。
向原・遠上・中島講中で造立した庚申塔について、古内トミ氏は次のように語ってくれた。
 私ら幼い頃、お爺さんにだっこしていて他の人に話しているのを聞いたことですが、みんな虫を殺したので、その供養のためにたてたそうです。旧暦10月10日っていうと刈り上げ祭りで、庚申様のお祭りだっていうことはわかってました。10月10日っていうのとお正月は、こんな大きなお供え餅を親戚に配って歩いたんだけども、交換のようだったね。お嫁さんの休み日でした。

山神塔(大山祇命)
司法を山に囲まれている川内の人々にとって、山は生活そのものであった。山神は山の守護神としてだけでなく、春になると山からおりられて田の神となる。そして、収穫が終わるとまた、山に帰られるのである。ことに、炭焼きや鉄砲をやる人たちに深く信仰された山神は、各地区に山ノ神講を結成させたのである。
井出正人氏は、私の先祖がグランドの上にある大きな岩の上に山の神の祠を建てたが、相馬郡飯舘村佐須の山ノ神だった、と言っている。
また、上川内字大津辺には川内村林業組合役職員が造立した「大山祇命」の石碑がある。森林組合がこの辺の山を買って、事業(伐採や植林)の安定を祈願したものである。
一方、上川内字子安川の「古牛田山神」、下川内字北川原の「山神尊」の石塔は女人の山ノ神講のため造立されたもので、宮城県遠田郡小牛田町牛飼の山神社のことである。祭神は木花咲耶姫命他三柱である。

上川内中里の石碑群

長網の経典供養塔

高さ63cm
南無妙法蓮華経

経典供養塔を大別すると、納経に関するもの・誦経に関するもの、題目や名号のように刻字に関するものと、三つに分類することができる。
各々、経典を供養することによって、極楽への往生を願ったものである。これらの石塔の多くは各地区の講中によって造立されている。

上川内長網の経典供養塔

楢生の石尊

神奈川県中郡大山に鎮座する阿夫利神社の別名である。神体に似た1箇の石にちなみ、石尊権現という。昔は旧暦6月28日が例祭で、この日に参拝することを大山参り、または石尊参りと言った。
上川内字早渡の石尊には、次のような言い伝えがある。
昔、山をホコリ(松煙)を背負って歩いていた人が猪と出会った。「一生に一度のお願いだから助けてくれ」と、日頃信仰していた石尊様に一心に祈った。そして、猪と格闘しているうちに、山の上から背負っていたホコリが落ちて転がっていったので、猪は人だと思ってホコリの方に向った。それで、その人は助かった。気を取りなおして、猪を鉄砲で打って食べたところ、猪肉は三年すぎた古傷もほころびるくらいうまくて食べたが、猪と格闘した際にできた傷が痛くなり、ひどいめにあったが、それでも命はとりとめた。これも石尊様のお蔭と、お礼に石塔を建てた。
という。

上川内の炭焼場の石尊

早渡の牛馬供養塔

高さ91cm

馬頭尊が文政3(1820)年から造立されていたのに対し、牛の供養塔は大正7(1918)年が初めてである。ここに約100年のずれがあり、この間は家畜として牛を飼うことはなかったと思われる。土地に合った家畜として、馬がいかに重要なものであったか推察できるのである。牛が導入されたのは、ごく最近のことであった。

上川内の早渡の牛馬供養塔

国見太子堂の馬頭観世音

高さ56cm

馬産地川内には、108基の「馬頭尊」の石塔を確認している。
馬が不慮の災難にあった場所や、自分の家で大切にしていた馬が死んだ時に、供養のために建てられることが多い。
高田島の後谷地には、昭和34(1959)年に造立された馬頭尊の石塔がある。これは、軍馬に徴用された馬の供養のために、後になって建てたものだという。
上川内の早渡には、国有種馬種付畜主一同が造立した「馬頭観世音」がある。この辺一帯は牧草地で、種付場があったので建てたという。小安川の馬頭尊のある所では、必ず馬が転んだ場所なので、俗称「駒ころばし」といわれる。
このように、いわくつきの場所には必ずと言ってよい程、馬の供養塔が建てられたのである。

上川内の国見太子堂の馬頭観世音

国見太子堂の経王塚碑

高さ159cm

納経供養塔
これらの石塔は、社寺に納経や埋経した祈念の石塔である。
国見の大師堂脇には経王塚の碑がある。これは経塚の上に建てられたもので、経石が出土している。経塚は末法思想に伴って、平安から室町時代まで各地に行われた。
次の3基の石塔は、納経供養塔である。「一字一石法華」は、法華経を石に書いて奉納したものである。また、「秩父坂東供養塔」は、西国88カ所の霊場巡りと同様に、秩父坂東の霊場を巡拝師し、納経した祈念に造立されたものと思われる。「大般若」は天保15(1844)年の造立で、長福寺に大般若六百巻を寄進した記念であろうか。

上川内の国見太子堂の経王塚碑

国見太子堂の庚申塔

高さ157cm

庚申は「かのえさる」の日で、60日に一度めぐってくるが、かのえさるの年というと60年に1度になる。
庚申の夜に眠ると三尸の虫が体内からぬけ出て、天帝にその人の罪を知らせるので命を奪われる。だから、この夜には近隣の人たちが集まって、眠らないで夜を明かした。
川内では、この講中は全く姿を消してしまったが、石塔よりするとかつては下川内の町・小田代・宮渡・宮下で行われたことがあり、上川内では向原・遠上・中島の人たちが講を組み、三組合同の庚申塔をたてた。中でも遠上では、若者組がこの塔を造立している。
庚申は道教より出たものであるが、わが国では早くから広まり、枕草子などにも書かれている。
庚申の夜は、夜を徹して語り明かしたので、普通の日に面倒な話になると、「その話は庚申の晩に」といわれる程、江戸時代になると庚申信仰は庶民の間に広まった。
庚申=猿田彦神という観念から、道案内・旅行の神とされたり、猿の信仰とも結びついて猿を神使とする山王大権現と同一視されたりしたのである。従って馬の守護神として、眼病平癒の祈願としても信仰された。このように、庚申は種々の信仰と重なって庶民の間に伝わったのであった。
川内には、宝暦5(1755)年までの庚申塔30基を有するが、どのような祈願をこめて造立されたものであろうか。
上川内字久保の庚申塔は大正14(1925)年に造立されているが、ウブズナ様として祀っているらしい。また、川内村の庚申塔を見ると、台座に三猿あるいは二猿を描いたのは数基あるが、青面金剛像は一基もなかった。
向原・遠上・中島講中で造立した庚申塔について、古内トミ氏は次のように語ってくれた。
私ら幼い頃、お爺さんにだっこしていて他の人に話しているのを聞いたことですが、みんな虫を殺したので、その供養のためにたてたそうです。旧暦10月10日っていうと刈り上げ祭りで、庚申様のお祭りだっていうことはわかってました。10月10日っていうのとお正月は、こんな大きなお供え餅を親戚に配って歩いたんだけども、交換のようだったね。お嫁さんの休み日でした。

上川内の国見太子堂の庚申塔

国見太子堂境内の巳待塔

暦の「つちのとみ」の日を信仰するのが、巳待である。本尊は弁財天で、ヘビを神使としている。この日の巳の刻(午前10時頃)を待って弁財天を祈り、その姿を拝んだ者は幸運に恵まれるといわれた。元来は水の守護神であり農業神であったが、音楽・技芸を司る神として、また鎌倉時代以降は福徳神としても信仰されるようになり、七福神の一人と数えられた。
 蛇を使いとしているところから、蚕を食べる鼠の天敵であるので、養蚕の業に携わる人々の信仰をも集めたのであろうか、川内には14基の巳待塔が確認されている。中でも、下川内字宮ノ下の三叉路にたつ「巳需供養塔」は、大きさも風格においても群を抜いている。この明和7(1770)年の供養塔が最も古く、明治9(1876)年まで巳待信仰が続いていた。

上川内国見太子堂の巳待塔

五社八幡参道の馬頭尊

高さ70cm

馬産地川内には、108基の「馬頭尊」の石塔を確認している。
馬が不慮の災難にあった場所や、自分の家で大切にしていた馬が死んだ時に、供養のために建てられることが多い。
高田島の後谷地には、昭和34(1959)年に造立された馬頭尊の石塔がある。これは、軍馬に徴用された馬の供養のために、後になって建てたものだという。
上川内の早渡には、国有種馬種付畜主一同が造立した「馬頭観世音」がある。この辺一帯は牧草地で、種付場があったので建てたという。小安川の馬頭尊のある所では、必ず馬が転んだ場所なので、俗称「駒ころばし」といわれる。
このように、いわくつきの場所には必ずと言ってよい程、馬の供養塔が建てられたのである。

上川内の五社八幡参道の馬頭尊