川内村観光協会

草野心平をたずねて

川内村名誉村民、草野心平の足跡を巡ります。草野心平が愛した川内村、その面影を感じていただけるでしょうか。

過去の記事から順に表示しています。

辻まことさんのお墓

長福寺にある辻まことさんのお墓

 辻まことさん(本名辻一)は、画家であり詩人。また山岳家でもあります。1913年9月20日生まれ。草野心平先生の大事な友人でもありました。
 現在は、奥様といっしょに、長福寺のはずれの小さなお墓に眠っています。

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 山岳家としての辻まことさんのモットーは「ヒマラヤよりウラヤマ」。偉大な登山家が目指す名だたる名山もいいけれど、彼が愛したのは、家のすぐ裏の裏山だったのです。命をかけて名声を得るよりも、日本中のそこここにある裏山を散策しながら、季節の折々を楽しむ。それが辻まことさん流の山の楽しみでした。中でも、草野心平先生に誘われて訪れたかわうち村のウラヤマは、辻まことさんのイメージにぴったりのウラヤマだったようです。
 辻まことさんは、日本のダダイズムの中心的人物である辻潤さんと、婦人解放運動家で関東大震災時に虐殺された伊藤野枝さんを両親としています。それだけに、その朴訥とした文章や絵の趣とは裏腹に、ご自身の人生は波乱万丈でした。最後は胃ガンが思うように癒えず、愛用のリュックサックの紐で自殺されたということです。
 遺書には、墓をつくるなと残されていましたが、翌年、まことさんの病床に尽くした奥様も他界され、それを機に、娘さんと草野心平先生が相談し、お気に入りのかわうち村長福寺にお墓をつくることになりました。
 立派なお墓ではありません。石を置いただけの質素なお墓です。草野心平先生をかわうち村に呼んだ長福寺の矢内俊晃住職が、川で見つけてきた自然石に、心平先生が墓標の文字を書いています。お墓は、その矢内和尚のお墓の隣に、ひっそりと。

住職の自転車

長福寺の住職の自転車

 草野心平先生とかわうち村をつないだのは、村一番のお寺である長福寺の住職、矢内俊晃さんでした。その住職が生前に愛用した自転車が、長福寺の山門に、そのままの姿で残されています。年々、錆が進んでいきますが、それもまた、自然の流れにまかせた姿かもしれません。

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長福寺の住職の自転車

 川内村史には、心平先生が散歩をしている写真が掲載されています。’53年撮影のもので、心平先生が初来村した当時のものと思われます。心平先生の歩く先を、矢内和尚がいっしょに歩いていますが、和尚が押しているのが、この自転車です。
 矢内和尚は’80年3月に死去、心平先生も88年10月27日、85歳で旅立ちました。在りし日の主人たちを失った自転車は、その日から数えてもすでに30年、錆が進みながらも、今でも和尚と心平先生が散歩に出かけるのを待っているかのように、山門のかたわらにたたずんでいます。

昭和28年村内を散歩する草野心平先生

睦月さんの歌碑

あづまや商店裏の歌碑

鶏の尾のやわらかし春の風
井出睦月

 草野心平先生が、川内村で時間をすごし始めたとき、生活の拠点としたのが、ここの離れでした。
 今、その離れはもうありませんが、ご主人の歌碑が残っています。心平先生は、詩が好きなご主人と話をしているうち、ここに落ち着くことになったのだろうと思われます。
 上川内の郵便局の裏のお庭に、その碑があります。

長福寺の歌碑

長福寺にある心平先生の歌碑

長福寺
雨蕭々
心平

 長福寺の境内にある、草野心平先生の歌碑。参道の途中にあります。

長福寺にある草野心平先生の歌碑の拡大版

 よく見ると、友人で詩人の山本太郎氏の添え書きがあります。山本太郎氏は、心平先生の逝去とほぼときを同じくして急逝されました。

バア學校

阿武隈民芸館の中にある草野心平のお店、バア學校

 かわうち草野心平記念館の阿武隈民芸館。この中に、突然飲み屋さんがあります。バア學校。
 草野心平先生が、1960年に新宿に開店した小さなスナックです。1988年に心平先生が亡くなって、そのお店がそっくりそのまま川内村にやってきました。
 大時計は、それはそれは大きな時計ですが、動きません。時間を気にせず呑んでもらうという思いがあったという話もあります。「學校」の看板もピンク電話も、当時のものがそのまま。ここにいると、心平先生といっしょに呑んでいるような気になります。
 心平先生は、もちろんこのバアの店主でしたが、店の主人に合って誰よりも酒を飲み、お客さんにけんかをふっかけることもあったそうです。
 そのうち、心平先生を慕って通ってきた女子大生にお店をまかせて、心平先生は晴れて呑むだけのお客さん兼オーナーにおさまったというわけです。女子大生だったレイコさんは、今、新宿ゴールデン街で、バア學校のママをやっています。

天山祭

2008年天山祭

 1966年7月16日、川内村に天山文庫が完成しました。その落成記念日に、毎年おこなわれているのが、天山祭です。今は、7月の第2日曜が天山祭の日となっています。
 舞台は天山文庫。ここにみんなが酒や肴を持ち寄り、時を忘れるほどに楽しんだのが、心平先生が好きだったお祭りのスタイルでした。
 心平先生が亡くなられた今も、天山祭は変わらず毎年開かれます。酒や肴、山菜が振舞われる、詩の朗読や伝統芸能の披露もあります。

モリアヲ蛙に感謝

矢内俊晃和尚の蛙への感謝の記

 矢内俊晃長福寺和尚が、心平先生と出会ったときのことをつづった手記が残っています。郵便局長宛となっているこの手記は、活字となっていろいろなところで紹介されていますが、その冒頭にあるのがこの短い感謝のことばです。
 第1回読売文学賞を受賞した蛙の詩人を熱心に我が村の沼に誘い、ようやくかなえられた詩人との出会いへの感謝を、和尚はこんなふうに蛙にささげているのです。

川内校跡モニュメント

川内校跡地のモニュメント

 川内村には、高校がひとつありました。福島県立富岡高校川内校。中学校に相対するところにあって、村の若者たちを育ててきました。
 その川内校が、2011年3月1日に60年の歴史を閉じ、閉校となりました。途中、1958年からの20年ほどは、川内村村立川内高校としての時代もありました。その後、福島県立富岡高等学校川内校として、最後の日を迎えることになりました。
 閉校を記念して、後者北側に記念碑が建てられました。川内校跡地と記されています。記念碑の背面には、草野心平先生作詞による校歌も彫り込まれています。心平先生の直筆のままに石面に刻まれた校歌は、ここで学んだ1704名の心にもまた、しっかりと刻み込まれているのです。

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川内校跡地のモニュメント除幕式

 校長、分校長、福島県教育長、村長などが、卒業生と共にモニュメントの序幕を行いました。かわうちに高校が存在したという証は、いつまでも残ります。

川内校の草野心平作詞の校歌

 体育館に掲げられていた、草野心平作詞黛俊郎作曲の校歌(こちらは、草野心平の自筆ではありません。自筆の校歌は、モニュメントの裏側に残されています)。閉校式では、最後の校歌斉唱もありました。

平伏沼の句碑

平伏沼入口にある草野心平の歌碑

 カエルの詩人草野心平が川内村と深い縁を持つようになったのは、平伏沼にモリアオガエルが生息していたからでした。天然記念物に指定されているモリアオガエルは、沼の周囲の木の枝に卵を産み、天敵に卵を襲われないようにしています。
 心平先生がここを訪れたのは、昭和28年、1953年のことでした。今、平伏沼に向かうルートの入口には、心平先生の句碑が建っています。
 平伏沼のたたずまいは、今も昔も変わらず、モリアオガエルを育み続けるのです。