川内村観光協会

麓山神社

鎮座地 上川内字町分
祭神 麓山祇命・大山祇命・稲倉魂命
祭日 旧暦9月27日(現11月1日)

麓山は、端山・葉山・羽山などともいい、岩崎敏夫著『本邦小祀の研究』に詳しいが、葉山=麓山は「古い時代、墓が山の上にある事も多かった。……肉体を葬ったほとけっぽに対して、死霊をまつったとうばつかは高いところにあった。恐らくは神霊仏霊を問わず、そうしたのものの集まる山がいくつもあったものと思われ、はやまもこれに関連がある」と考えられる。
嘉吉2(1442)年の創建と伝える当社は、葉山権現とも呼ばれた。祭日は旧暦9月27日。女人禁制の山頂に鎮座しているが、現在は新暦11月1日に祭日は変更され、近年、女人禁制も解除された。
神官の家のそばに篭り堂がある。旧暦26日の宵に、各家から一人ずつ参加し、夜にはウルチの粉で作った、塩餅を萱の箸で食べた。食事の支度は、全部男でやり、堂内にゴロ寝をした。27日には、ワラミゴで作った前掛けをかけ、竹を2〜3センチに切ったものに紐を通して、それを首にかけて麓山に参拝するが、途中の杉の木の所で履物を脱いで、裸足で参拝するのである。この祭には年令に関わらず、主に一家の若い者が参加したようである。麓山は男の神様で、戦時中には軍の神様として、また狩猟など仕事の祈願をしたものであった。
盆の15日には、神社の祭礼とは関係なく、子どもたちによって行われるのが「火祭」である。ある村人は、「昔、害虫がいたんで虫送りをした行事の名残で、『山』とか『上』の字を松明で隔年毎に書くのは、水害がないように、山崩れがないようにやるんだと聞いている。いつの間にか、お盆様を迎えるために火を焚くんだということになった。昔は藁小屋を建て、そこで餅を焼いて食べたりしてから小屋に火をつけたものだが、今は小屋を作って、最初にそこに火をつけて燃やしてから松明の方に火をつけるようになった。私ら子どもの頃は、麦藁をもらって歩いたもんだが、今は麦は無いから、稲藁でやっている。」と語っている。
麓山の中腹のジャグ(地山がむき出ている所)に、「山」と「上」を隔年毎に火文字を書くのである。久保部落でも前山に火文字を書いたことがあるという。ある年に「川」という字を書いたところ、その年は大水害に遭ったので、それ以後「川」の字は用いないことになったのだという。
井出啓太郎氏は、死んだ人の霊は麓山に集まるということを聞いたことがあると言っている。京都五山の送り火に対して、祖霊の迎え火ということができようか。

上川内町分の麓山神社

迎原の庚申・巳需塔

高さ100cm (庚申)
高さ92cm (巳需塔)

庚申供養塔
庚申は「かのえさる」の日で、60日に一度めぐってくるが、かのえさるの年というと60年に1度になる。庚申の夜に眠ると三尸の虫が体内からぬけ出て、天帝にその人の罪を知らせるので命を奪われる。だから、この夜には近隣の人たちが集まって、眠らないで夜を明かした。
川内では、この講中は全く姿を消してしまったが、石塔よりするとかつては下川内の町・小田代・宮渡・宮下で行われたことがあり、上川内では向原・遠上・中島の人たちが講を組み、三組合同の庚申塔をたてた。中でも遠上では、若者組がこの塔を造立している。
庚申は道教より出たものであるが、わが国では早くから広まり、枕草子などにも書かれている。庚申の夜は、夜を徹して語り明かしたので、普通の日に面倒な話になると、「その話は庚申の晩に」といわれる程、江戸時代になると庚申信仰は庶民の間に広まった。
庚申=猿田彦神という観念から、道案内・旅行の神とされたり、猿の信仰とも結びついて猿を神使とする山王大権現と同一視されたりしたのである。従って馬の守護神として、眼病平癒の祈願としても信仰された。このように、庚申は種々の信仰と重なって庶民の間に伝わったのであった。
川内には、宝暦5(1755)年までの庚申塔30基を有するが、どのような祈願をこめて造立されたものであろうか。
上川内字久保の庚申塔は大正14(1925)年に造立されているが、ウブズナ様として祀っているらしい。また、川内村の庚申塔を見ると、台座に三猿あるいは二猿を描いたのは数基あるが、青面金剛像は一基もなかった。
向原・遠上・中島講中で造立した庚申塔について、古内トミ氏は次のように語ってくれた。
 私ら幼い頃、お爺さんにだっこしていて他の人に話しているのを聞いたことですが、みんな虫を殺したので、その供養のためにたてたそうです。旧暦10月10日っていうと刈り上げ祭りで、庚申様のお祭りだっていうことはわかってました。10月10日っていうのとお正月は、こんな大きなお供え餅を親戚に配って歩いたんだけども、交感のようだったね。お嫁さんの休み日でした。

巳待供養塔
暦の「つちのとみ」の日を信仰するのが、巳待である。本尊は弁財天で、ヘビを神使としている。この日の巳の刻(午前10時頃)を待って弁財天を祈り、その姿を拝んだ者は幸運に恵まれるといわれた。元来は水の守護神であり農業神であったが、音楽・技芸を司る神として、また鎌倉時代以降は福徳神としても信仰されるようになり、七福神の一人と数えられた。
蛇を使いとしているところから、蚕を食べる鼠の天敵であるので、養蚕の業に携わる人々の信仰をも集めたのであろうか、川内には14基の巳待塔が確認されている。中でも、下川内字宮ノ下の三叉路にたつ「巳需供養塔」は、大きさも風格においても群を抜いている。この明和7(1770)年の供養塔が最も古く、明治9(1876)年まで巳待信仰が続いていた。

迎原の庚申・巳需塔

原の馬頭観世音堂

馬産地川内には、108基の「馬頭尊」の石塔を確認している。
馬が不慮の災難にあった場所や、自分の家で大切にしていた馬が死んだ時に、供養のために建てられることが多い。
高田島の後谷地には、昭和34(1959)年に造立された馬頭尊の石塔がある。これは、軍馬に徴用された馬の供養のために、後になって建てたものだという。
上川内の早渡には、国有種馬種付畜主一同が造立した「馬頭観世音」がある。この辺一帯は牧草地で、種付場があったので建てたという。小安川の馬頭尊のある所では、必ず馬が転んだ場所なので、俗称「駒ころばし」といわれる。
このように、いわくつきの場所には必ずと言ってよい程、馬の供養塔が建てられたのである。

上川内原の馬頭観世音堂

早渡の天照皇大神

屋敷氏神
屋敷とは、ある一定の地域をさすが、ここでいう屋敷氏神とは個々の邸内の一隅に、あるいは所有地内に鎮座している氏神をいう。祖先神として、また家の守り神として、元来本家だけに祀られたものであったが、本家が遠くにあるので参拝もままならないとか、職業によって祀る神が異なるという理由で邸内に祀る場合もある。川内村にあっては、このような屋敷氏神を持つ例は以外に少なく、これは同族がより強固に結合している現れではなかろうか。
屋敷氏神とは、本来は新藁で作ったツトコ氏神とか、フウデイと呼ばれるものであった。しかし、川内村にあっては、その風習は失われつつある。
田ノ入りの渡邉栄三郎氏の場合、出身地である伊達郡梁川町の茅原稲荷を、個人の氏神として屋敷内に勧請している。
旧暦9月9日(現在では新暦11月1日で、幣束も十本までに制限している)の幣束まつり(ツトコまつりともいう)には、崇敬する人々が藁ツトに赤飯を入れ、幣束とともに氏神様に供える。この時には、道端の石塔や石仏に至るまで、藁ツトーツトコーを供えるのである。
久保の秋元カツミ氏は、「おれげのウブスナ様の右脇んとこさ、9月祭の時に藁のウラの方しばって丸めて作ったの。前さ平らな石コロ置いて、幣束あげたんだ。何神様だかしゃあねえが、おらげのおんつぁま、ツトコあげっ時こせえてんの見たことある」と言っている。
もう一人、このような氏神様を見たと証言しているのは、町分に住む猪狩文男氏で、「井出小左衛門さんの所では、藁で屋根みたいなの作って幣束を入れて、おまつりしていんの見たことあんだ。今はなくしちまったが、藁の上の方まるめてツトコと幣束あげてんの見て、氏神様なんでこういうことやんのかと思って見ていた。おらの青年時代のことで、この辺では小松屋だけだったな」というように、今では作っている人もいないし、作った人は皆故人になっているという。
しかし、ツトコ氏神は存在していた。瀬耳上の新妻忠義氏の裏山には、六基のツトコ氏神が所々に祀られているが、その意味は知らないという。舘屋の三瓶道夫氏のマケ氏神の周辺にも、四基のツトコ氏神が確認された。同所の三瓶善勝氏は、「昔はどこでもやっていたようだが、ここのツトコは心中した人がいたんで、拝んでもらったらこうゆうのあげろっていわっちぇ、あげたようだ」と言っている。高田島の猪狩定夫氏は、父親から聞いた話として、「わがいの犬とか猫とか馬、つまり眷属が亡くなった時に、幣束祭りにお祀りすんだ」と言っている。その名称については知らないが、今でも何軒かで行っているという。場所は、ウブスナ様の周辺である。
『本邦小祠の研究』によると、いわき地方や相馬の方では、最終の年忌(タテ止め)がすむと、つつこ神になると言われている。現在では犬や馬の霊であっても、根底には祖霊的要素が多分に含まれているのである。

上川内早渡の天照皇大神

長福寺の石碑群

高さ65cm (二十三夜塔)
高さ91cm (庚申塔)
高さ85cm (湯殿山)
高さ91cm (庚申塔)
高さ73cm (巳待塔)

二十三夜供養塔
宝暦11(1761)年より昭和6(1931)年のものまで、川内には10基の二十三夜塔が確認されている。
勢至菩薩を本尊とする二十三夜は、単に『三夜様」として親しまれ、安産や子育ての神として信仰されている。
また、この神を信仰すると金銭に不自由しないとも言われ、相馬地方にあっては蚕神としての信仰も見られる。産神(さんじん)の音読みからくる発想であろうか。
下川内の成田不動尊境内には、田ノ入の渡邉ツタイ刀自が昭和7(1932)年に造立した二十三夜塔がある。渡邉栄三郎氏の話によると、ツタイ刀自は二十三夜様を信仰した人で、毎月23日には月のあがるまで起きて拝んだという。

庚申供養塔
庚申は「かのえさる」の日で、60日に一度めぐってくるが、かのえさるの年というと60年に1度になる。庚申の夜に眠ると三尸の虫が体内からぬけ出て、天帝にその人の罪を知らせるので命を奪われる。だから、この夜には近隣の人たちが集まって、眠らないで夜を明かした。
川内では、この講中は全く姿を消してしまったが、石塔よりするとかつては下川内の町・小田代・宮渡・宮下で行われたことがあり、上川内では向原・遠上・中島の人たちが講を組み、三組合同の庚申塔をたてた。中でも遠上では、若者組がこの塔を造立している。
庚申は道教より出たものであるが、わが国では早くから広まり、枕草子などにも書かれている。庚申の夜は、夜を徹して語り明かしたので、普通の日に面倒な話になると、「その話は庚申の晩に」といわれる程、江戸時代になると庚申信仰は庶民の間に広まった。
庚申=猿田彦神という観念から、道案内・旅行の神とされたり、猿の信仰とも結びついて猿を神使とする山王大権現と同一視されたりしたのである。従って馬の守護神として、眼病平癒の祈願としても信仰された。このように、庚申は種々の信仰と重なって庶民の間に伝わったのであった。
川内には、宝暦5(1755)年までの庚申塔30基を有するが、どのような祈願をこめて造立されたものであろうか。
上川内字久保の庚申塔は大正14(1925)年に造立されているが、ウブズナ様として祀っているらしい。また、川内村の庚申塔を見ると、台座に三猿あるいは二猿を描いたのは数基あるが、青面金剛像は一基もなかった。
向原・遠上・中島講中で造立した庚申塔について、古内トミ氏は次のように語ってくれた。
私ら幼い頃、お爺さんにだっこしていて他の人に話しているのを聞いたことですが、みんな虫を殺したので、その供養のためにたてたそうです。旧暦10月10日っていうと刈り上げ祭りで、庚申様のお祭りだっていうことはわかってました。10月10日っていうのとお正月は、こんな大きなお供え餅を親戚に配って歩いたんだけども、交換のようだったね。お嫁さんの休み日でした。

湯殿山
湯殿山は、月山・羽黒山とともに出羽三山と称された。特に湯殿山は大日如来を本地とし、五穀豊穣の神として農民の信仰を集めたのである。
俳聖芭蕉は、「語られぬ 湯殿にぬらす 袂(たもと)かな」と読み、その神秘さが偲ばれる。
川内にも中久保講中があったが、近年においては講といわれるようなものはなく、先達が募集に来たので、数年に一度行ったという。
井出正人氏の先祖は鍛冶屋で、湯殿山にも数回参拝した。湯殿山に登る途中で大変苦労をしたので、鉄の梯子を作って寄進しようと思い立った。こちらで短い梯子をたくさん作って、鋲をもって行き、向うで組み立てる仕組みであった。馬に積んで村の人たちに手伝ってもらい次の村まで行くと、湯殿山に寄進するものだとわかると人々が出て手伝ってくれた。行く先々で土地の人が手伝ってくれたので、難なく湯殿山についてしまった。
この様子は今でも残っているそうである。

巳待供養塔
暦の「つちのとみ」の日を信仰するのが、巳待である。
本尊は弁財天で、ヘビを神使としている。この日の巳の刻(午前10時頃)を待って弁財天を祈り、その姿を拝んだ者は幸運に恵まれるといわれた。元来は水の守護神であり農業神であったが、音楽・技芸を司る神として、また鎌倉時代以降は福徳神としても信仰されるようになり、七福神の一人と数えられた。
蛇を使いとしているところから、蚕を食べる鼠の天敵であるので、養蚕の業に携わる人々の信仰をも集めたのであろうか、川内には14基の巳待塔が確認されている。中でも、下川内字宮ノ下の三叉路にたつ「巳需供養塔」は、大きさも風格においても群を抜いている。この明和7(1770)年の供養塔が最も古く、明治9(1876)年まで巳待信仰が続いていた。

NSH_0214

長福寺の馬頭観世音

高さ55cm

馬産地川内には、108基の「馬頭尊」の石塔を確認している。
馬が不慮の災難にあった場所や、自分の家で大切にしていた馬が死んだ時に、供養のために建てられることが多い。
高田島の後谷地には、昭和34(1959)年に造立された馬頭尊の石塔がある。これは、軍馬に徴用された馬の供養のために、後になって建てたものだという。
上川内の早渡には、国有種馬種付畜主一同が造立した「馬頭観世音」がある。この辺一帯は牧草地で、種付場があったので建てたという。小安川の馬頭尊のある所では、必ず馬が転んだ場所なので、俗称「駒ころばし」といわれる。
このように、いわくつきの場所には必ずと言ってよい程、馬の供養塔が建てられたのである。

上川内長福寺の馬頭観世音

長福寺の馬頭尊

高さ58cm

馬産地川内には、108基の「馬頭尊」の石塔を確認している。
馬が不慮の災難にあった場所や、自分の家で大切にしていた馬が死んだ時に、供養のために建てられることが多い。
高田島の後谷地には、昭和34(1959)年に造立された馬頭尊の石塔がある。これは、軍馬に徴用された馬の供養のために、後になって建てたものだという。
上川内の早渡には、国有種馬種付畜主一同が造立した「馬頭観世音」がある。この辺一帯は牧草地で、種付場があったので建てたという。小安川の馬頭尊のある所では、必ず馬が転んだ場所なので、俗称「駒ころばし」といわれる。
このように、いわくつきの場所には必ずと言ってよい程、馬の供養塔が建てられたのである。

上川内長福寺の馬頭尊

長福寺の巳待塔

高さ89cm

暦の「つちのとみ」の日を信仰するのが、巳待である。本尊は弁財天で、ヘビを神使としている。この日の巳の刻(午前10時頃)を待って弁財天を祈り、その姿を拝んだ者は幸運に恵まれるといわれた。元来は水の守護神であり農業神であったが、音楽・技芸を司る神として、また鎌倉時代以降は福徳神としても信仰されるようになり、七福神の一人と数えられた。
 蛇を使いとしているところから、蚕を食べる鼠の天敵であるので、養蚕の業に携わる人々の信仰をも集めたのであろうか、川内には14基の巳待塔が確認されている。中でも、下川内字宮ノ下の三叉路にたつ「巳需供養塔」は、大きさも風格においても群を抜いている。この明和7(1770)年の供養塔が最も古く、明治9(1876)年まで巳待信仰が続いていた。

長福寺の巳待塔

町分の一門氏神

ウブスナ様とも呼ばれ、屋敷内や、裏手の私有林内に祀られている。
一門氏神ーマケ氏神ーの歴史は古く、物部氏が布都大神を奈良県天理市の石上神宮に祀って氏神とした例や、広く知られているところでは、藤原氏も一門の氏神として春日大社を擁していた。この祭礼には、氏人は相当な負担をしたことが記録に残っている。藤原氏の氏神であった春日大社も、現在では奈良市に住む人たちの総氏神に変わっていった。
東京都台東区根岸に、元三島神社という社がある。神職は河野氏であり、自分の屋敷神であったが、近所に住む人たちが「氏子にしてくださいと頼みに来た」と、宮司が語っていた。これらの例から見ても、古い形の同族神が衰えることにより、鎮守としての村氏神が抬頭してきたものと思われる。
『民俗学事典』によると、ウブスナ神とは生まれた土地の神で、本来は氏神・鎮守神とは異なる。生まれた子供の初の宮参りに必ず産土神にゆくことにしている村は多い。ウブスナ神はウブ神とも関係があろう。ウブ神は出産に際して守護にあたる神であるとしている。とすれば、ヒアケに祖母が孫を抱いて、ウブスナ様に参拝することもうなづける。
上川内字町分の井出家は、龍田・秋葉・若木の三神を氏神としている。一門一〇戸の氏神で、その由来は「当社勧請之儀ハ不詳、然レトモ往古大和国井出某当郡井出……田神霊ヲ奉祀ス、又某一族某ナル者当地ニ来リ住ス、故ニ当社ヲ勧請ス」とある。これより察すると、井出家発祥の地であろう大和(奈良県)より龍田の風神を田ノ神として奉祀したことが知られる。火防の神としての秋葉神社は明治5年に、疱瘡神である若木神社は明治17年に同所に勧請されている。
また、同一敷地からやや離れて、石井家の氏神があり、その敷地内に石井金七氏個人の氏神として、天神宮の祠がある。この家では、教員が何人も出ているからだという。いわゆる職能神を氏神としている例である。
下川内の佐久間淳氏の家は、通称「荒宿の酒屋」と呼ばれ、代々庄屋の家柄であった。同氏の邸内には、稲荷神社が祀られており、『郷土誌』によると、「明治元年九月、山城国伏見ヨリ御分霊奉遷」とあるが、家系図によると、「文政六年末四月、家の後ロニ安置スル処ノ稲荷神社、正一位ヲ下シ給ヘ、正一位佐久間稲荷ト奉稱拝」とある。佐久間氏の一族、一〇戸位で奉祀しているという。
また、久保の秋元カズミ氏の家では、文政12年9月の勧請になる「蔵主大明神」と「山神」をウブスナ様としているが、改築するにあたって本家・新宅ばかりでなく、上の屋敷の友だちみたいな人たちも寄附をして「蔵ぬしだから縁起がいいから、みんなで拝むべ」といった例もある。一門氏神の性格より脱皮し、氏子+崇敬者の氏神に発展していく例である。
このような小祠や堂には、講主といわれる責任者がいる。施主などと同じで、多くは本家が講主となり、祭典や修繕の世話を行う。
これらの小祠を、『郷土誌』では「秀倉」(ホコラまたはホクラ)という字を当てている。柳田国男は、『柱祭と子供』の中で、「先づ以て昔の禿倉(又は寳倉)の成り立ちを考えねばならぬ。今日のホコラはたゞ社の極小なもので、小祠などと云ふ漢字を宛てゝも當るやうに認められて居るが、其寳は一時的の、移動自在の神の坐所」ではなかったかと言っている。
このようにみると、次に述べる屋敷神こそ柳田の言う秀倉(禿倉)ではなかったかと思われる。『郷土誌』には、前者の小祠の使われたものであろう。
 山祇・稲荷・熊野が上位三社であるが、4月8日・10月8日を境として山神は田の神へ、田の神は山神となって子孫を守る風習もある(『本邦小祠の研究』)。これらは、祖霊神であると考えられるが、稲荷の中には養蚕の神として、小高町の蛯沢稲荷神社より勧請した社や、伏見稲荷の勧請社もある。

上川内町分の一門氏神

町分の屋敷氏神

屋敷とは、ある一定の地域をさすが、ここでいう屋敷氏神とは個々の邸内の一隅に、あるいは所有地内に鎮座している氏神をいう。祖先神として、また家の守り神として、元来本家だけに祀られたものであったが、本家が遠くにあるので参拝もままならないとか、職業によって祀る神が異なるという理由で邸内に祀る場合もある。川内村にあっては、このような屋敷氏神を持つ例は以外に少なく、これは同族がより強固に結合している現れではなかろうか。
屋敷氏神とは、本来は新藁で作ったツトコ氏神とか、フウデイと呼ばれるものであった。しかし、川内村にあっては、その風習は失われつつある。
田ノ入りの渡邉栄三郎氏の場合、出身地である伊達郡梁川町の茅原稲荷を、個人の氏神として屋敷内に勧請している。
旧暦9月9日(現在では新暦11月1日で、幣束も十本までに制限している)の幣束まつり(ツトコまつりともいう)には、崇敬する人々が藁ツトに赤飯を入れ、幣束とともに氏神様に供える。この時には、道端の石塔や石仏に至るまで、藁ツトーツトコーを供えるのである。
久保の秋元カツミ氏は、「おれげのウブスナ様の右脇んとこさ、9月祭の時に藁のウラの方しばって丸めて作ったの。前さ平らな石コロ置いて、幣束あげたんだ。何神様だかしゃあねえが、おらげのおんつぁま、ツトコあげっ時こせえてんの見たことある」と言っている。
もう一人、このような氏神様を見たと証言しているのは、町分に住む猪狩文男氏で、「井出小左衛門さんの所では、藁で屋根みたいなの作って幣束を入れて、おまつりしていんの見たことあんだ。今はなくしちまったが、藁の上の方まるめてツトコと幣束あげてんの見て、氏神様なんでこういうことやんのかと思って見ていた。おらの青年時代のことで、この辺では小松屋だけだったな」というように、今では作っている人もいないし、作った人は皆故人になっているという。
しかし、ツトコ氏神は存在していた。瀬耳上の新妻忠義氏の裏山には、六基のツトコ氏神が所々に祀られているが、その意味は知らないという。舘屋の三瓶道夫氏のマケ氏神の周辺にも、四基のツトコ氏神が確認された。同所の三瓶善勝氏は、「昔はどこでもやっていたようだが、ここのツトコは心中した人がいたんで、拝んでもらったらこうゆうのあげろっていわっちぇ、あげたようだ」と言っている。高田島の猪狩定夫氏は、父親から聞いた話として、「わがいの犬とか猫とか馬、つまり眷属が亡くなった時に、幣束祭りにお祀りすんだ」と言っている。その名称については知らないが、今でも何軒かで行っているという。場所は、ウブスナ様の周辺である。
『本邦小祠の研究』によると、いわき地方や相馬の方では、最終の年忌(タテ止め)がすむと、つつこ神になると言われている。現在では犬や馬の霊であっても、根底には祖霊的要素が多分に含まれているのである。

上川内町分の屋敷氏神