川内村観光協会

長福寺の石碑群

高さ65cm (二十三夜塔)
高さ91cm (庚申塔)
高さ85cm (湯殿山)
高さ91cm (庚申塔)
高さ73cm (巳待塔)

二十三夜供養塔
宝暦11(1761)年より昭和6(1931)年のものまで、川内には10基の二十三夜塔が確認されている。
勢至菩薩を本尊とする二十三夜は、単に『三夜様」として親しまれ、安産や子育ての神として信仰されている。
また、この神を信仰すると金銭に不自由しないとも言われ、相馬地方にあっては蚕神としての信仰も見られる。産神(さんじん)の音読みからくる発想であろうか。
下川内の成田不動尊境内には、田ノ入の渡邉ツタイ刀自が昭和7(1932)年に造立した二十三夜塔がある。渡邉栄三郎氏の話によると、ツタイ刀自は二十三夜様を信仰した人で、毎月23日には月のあがるまで起きて拝んだという。

庚申供養塔
庚申は「かのえさる」の日で、60日に一度めぐってくるが、かのえさるの年というと60年に1度になる。庚申の夜に眠ると三尸の虫が体内からぬけ出て、天帝にその人の罪を知らせるので命を奪われる。だから、この夜には近隣の人たちが集まって、眠らないで夜を明かした。
川内では、この講中は全く姿を消してしまったが、石塔よりするとかつては下川内の町・小田代・宮渡・宮下で行われたことがあり、上川内では向原・遠上・中島の人たちが講を組み、三組合同の庚申塔をたてた。中でも遠上では、若者組がこの塔を造立している。
庚申は道教より出たものであるが、わが国では早くから広まり、枕草子などにも書かれている。庚申の夜は、夜を徹して語り明かしたので、普通の日に面倒な話になると、「その話は庚申の晩に」といわれる程、江戸時代になると庚申信仰は庶民の間に広まった。
庚申=猿田彦神という観念から、道案内・旅行の神とされたり、猿の信仰とも結びついて猿を神使とする山王大権現と同一視されたりしたのである。従って馬の守護神として、眼病平癒の祈願としても信仰された。このように、庚申は種々の信仰と重なって庶民の間に伝わったのであった。
川内には、宝暦5(1755)年までの庚申塔30基を有するが、どのような祈願をこめて造立されたものであろうか。
上川内字久保の庚申塔は大正14(1925)年に造立されているが、ウブズナ様として祀っているらしい。また、川内村の庚申塔を見ると、台座に三猿あるいは二猿を描いたのは数基あるが、青面金剛像は一基もなかった。
向原・遠上・中島講中で造立した庚申塔について、古内トミ氏は次のように語ってくれた。
私ら幼い頃、お爺さんにだっこしていて他の人に話しているのを聞いたことですが、みんな虫を殺したので、その供養のためにたてたそうです。旧暦10月10日っていうと刈り上げ祭りで、庚申様のお祭りだっていうことはわかってました。10月10日っていうのとお正月は、こんな大きなお供え餅を親戚に配って歩いたんだけども、交換のようだったね。お嫁さんの休み日でした。

湯殿山
湯殿山は、月山・羽黒山とともに出羽三山と称された。特に湯殿山は大日如来を本地とし、五穀豊穣の神として農民の信仰を集めたのである。
俳聖芭蕉は、「語られぬ 湯殿にぬらす 袂(たもと)かな」と読み、その神秘さが偲ばれる。
川内にも中久保講中があったが、近年においては講といわれるようなものはなく、先達が募集に来たので、数年に一度行ったという。
井出正人氏の先祖は鍛冶屋で、湯殿山にも数回参拝した。湯殿山に登る途中で大変苦労をしたので、鉄の梯子を作って寄進しようと思い立った。こちらで短い梯子をたくさん作って、鋲をもって行き、向うで組み立てる仕組みであった。馬に積んで村の人たちに手伝ってもらい次の村まで行くと、湯殿山に寄進するものだとわかると人々が出て手伝ってくれた。行く先々で土地の人が手伝ってくれたので、難なく湯殿山についてしまった。
この様子は今でも残っているそうである。

巳待供養塔
暦の「つちのとみ」の日を信仰するのが、巳待である。
本尊は弁財天で、ヘビを神使としている。この日の巳の刻(午前10時頃)を待って弁財天を祈り、その姿を拝んだ者は幸運に恵まれるといわれた。元来は水の守護神であり農業神であったが、音楽・技芸を司る神として、また鎌倉時代以降は福徳神としても信仰されるようになり、七福神の一人と数えられた。
蛇を使いとしているところから、蚕を食べる鼠の天敵であるので、養蚕の業に携わる人々の信仰をも集めたのであろうか、川内には14基の巳待塔が確認されている。中でも、下川内字宮ノ下の三叉路にたつ「巳需供養塔」は、大きさも風格においても群を抜いている。この明和7(1770)年の供養塔が最も古く、明治9(1876)年まで巳待信仰が続いていた。

NSH_0214

緯度37.3512298 経度140.7988210

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