川内村観光協会

歴史探索コース

遺跡巡りなどをしながら、村のあちこちを探索してみませんか。奥深いかわうちの魅力を味わうこともできます

過去の記事から順に表示しています。

上川内の迎え火と送り火

上川内のお盆の迎え火

 川内村上川内には、お盆のときに迎え火と送り火でご先祖さまを送り迎えする風習があります。
 夕方、あたりが暗くなった頃、おうちの前で木を焚いて火をともします。
 下川内にはこうした習慣はないそうで、川内村が、上川内村と下川内村のふたつの村が合併してできた村であることを、あらためて知らされるところです。

中島の巳待供養塔・庚申塔

巳待供養塔 高さ219cm
庚申塔 高さ87cmと83cm

巳待供養塔
暦の「つちのとみ」の日を信仰するのが、巳待である。
本尊は弁財天で、ヘビを神使としている。この日の巳の刻(午前10時頃)を待って弁財天を祈り、その姿を拝んだ者は幸運に恵まれるといわれた。元来は水の守護神であり農業神であったが、音楽・技芸を司る神として、また鎌倉時代以降は福徳神としても信仰されるようになり、七福神の一人と数えられた。
蛇を使いとしているところから、蚕を食べる鼠の天敵であるので、養蚕の業に携わる人々の信仰をも集めたのであろうか、川内には14基の巳待塔が確認されている。中でも、下川内字宮ノ下の三叉路にたつ「巳需供養塔」は、大きさも風格においても群を抜いている。この明和7(1770)年の供養塔が最も古く、明治9(1876)年まで巳待信仰が続いていた。

庚申塔
庚申は「かのえさる」の日で、60日に一度めぐってくるが、かのえさるの年というと60年に1度になる。庚申の夜に眠ると三尸の虫が体内からぬけ出て、天帝にその人の罪を知らせるので命を奪われる。だから、この夜には近隣の人たちが集まって、眠らないで夜を明かした。
川内では、この講中は全く姿を消してしまったが、石塔よりするとかつては下川内の町・小田代・宮渡・宮下で行われたことがあり、上川内では向原・遠上・中島の人たちが講を組み、三組合同の庚申塔をたてた。中でも遠上では、若者組がこの塔を造立している。
庚申は道教より出たものであるが、わが国では早くから広まり、枕草子などにも書かれている。庚申の夜は、夜を徹して語り明かしたので、普通の日に面倒な話になると、「その話は庚申の晩に」といわれる程、江戸時代になると庚申信仰は庶民の間に広まった。
庚申=猿田彦神という観念から、道案内・旅行の神とされたり、猿の信仰とも結びついて猿を神使とする山王大権現と同一視されたりしたのである。従って馬の守護神として、眼病平癒の祈願としても信仰された。このように、庚申は種々の信仰と重なって庶民の間に伝わったのであった。
川内には、宝暦5(1755)年までの庚申塔30基を有するが、どのような祈願をこめて造立されたものであろうか。
上川内字久保の庚申塔は大正14(1925)年に造立されているが、ウブズナ様として祀っているらしい。また、川内村の庚申塔を見ると、台座に三猿あるいは二猿を描いたのは数基あるが、青面金剛像は一基もなかった。
向原・遠上・中島講中で造立した庚申塔について、古内トミ氏は次のように語ってくれた。
私ら幼い頃、お爺さんにだっこしていて他の人に話しているのを聞いたことですが、みんな虫を殺したので、その供養のためにたてたそうです。旧暦10月10日っていうと刈り上げ祭りで、庚申様のお祭りだっていうことはわかってました。10月10日っていうのとお正月は、こんな大きなお供え餅を親戚に配って歩いたんだけども、交感のようだったね。お嫁さんの休み日でした。

上川内中島の巳待供養塔

撮影場所:上川内字中島

早渡の石尊

神奈川県中郡大山に鎮座する阿夫利神社の別名である。
神体に似た1箇の石にちなみ、石尊権現という。昔は旧暦6月28日が例祭で、この日に参拝することを大山参り、または石尊参りと言った。

上川内字早渡の石尊には、次のような言い伝えがある。
昔、山をホコリ(松煙)を背負って歩いていた人が猪と出会った。「一生に一度のお願いだから助けてくれ」と、日頃信仰していた石尊様に一心に祈った。そして、猪と格闘しているうちに、山の上から背負っていたホコリが落ちて転がっていったので、猪は人だと思ってホコリの方に向った。それで、その人は助かった。気を取りなおして、猪を鉄砲で打って食べたところ、猪肉は三年すぎた古傷もほころびるくらいうまくて食べたが、猪と格闘した際にできた傷が痛くなり、ひどいめにあったが、それでも命はとりとめた。これも石尊様のお蔭と、お礼に石塔を建てた。
という。

速渡の石尊

撮影場所:上川内早渡

五社八幡参道の馬頭尊

高さ70cm

馬産地川内には、108基の「馬頭尊」の石塔を確認している。
馬が不慮の災難にあった場所や、自分の家で大切にしていた馬が死んだ時に、供養のために建てられることが多い。
高田島の後谷地には、昭和34(1959)年に造立された馬頭尊の石塔がある。これは、軍馬に徴用された馬の供養のために、後になって建てたものだという。
上川内の早渡には、国有種馬種付畜主一同が造立した「馬頭観世音」がある。この辺一帯は牧草地で、種付場があったので建てたという。小安川の馬頭尊のある所では、必ず馬が転んだ場所なので、俗称「駒ころばし」といわれる。
このように、いわくつきの場所には必ずと言ってよい程、馬の供養塔が建てられたのである。

上川内の五社八幡参道の馬頭尊

五社八幡神社

鎮座地 下川内上川内界五社ノ森
祭神 誉田別命・速玉男命・保食命・稲倉魂命・白山比賣命
祭日 9月16日

八幡神は、大分県宇佐の宇佐神宮から、貞観元(859)年に京都の石清水は男山の峰に勧請された。源義家は石清水八幡宮の社前で元服したので、八幡太郎と呼ばれた。平氏が滅び源氏の世となるや、源頼朝は鎌倉に八幡宮を建立して崇敬した。源氏の氏神としてまた式神として信仰された。
下川内の石崎及び上川内字原には、誉田別命の第四子である大鷦鷯命(仁徳天皇)を祀る若宮八幡神社と、五社ノ森には誉田別命(応神天皇)、熊野速玉大社の氏神である速玉男命をはじめ稲荷の神としての保食命・稲倉魂命、石川県の白山々頂に鎮座する白山比咩神社の白山比賣命の神々を祀る五社八幡がある。誉田別命=八幡神とは疑問のある所である。

五社八幡神社

国見太子堂

遠上・中島・迎原で祀っている太子堂の祭礼は、旧暦4月1日と8月1日である。
聖徳太子は手作業の神様といわれ、針供養には裁縫をやっている人たちが着物の褄を作ってきて、お堂に飾ったものである。組内の人たちは重箱を持ち寄って、酒も一升くらいづつ持ってきたものである。昔は、川内村全体の人が一日休んでお参りにきたものであった。今でも裁縫を習っている人たちは、参拝に来るようである。
祭りには長福寺の和尚がきて、一緒に経文を唱えながら輪座になって数珠回しをする。これをやると、病気にならないと言われた。具合の悪い人など、旗をあげて祈願をした。今でも、裁縫を習っているような人は参拝に来る。

古内トミ氏は、「御縁日は旧の4月1日と8月1日で、御縁日とは別に旧暦の2月8日には針供養を行った。昔は針仕事をしたので、折れたり曲がったりした針を豆腐にさして、太師様に供えた。その時は、村いっぱいの人が集まって自分が作った雛形をお供えしたものです」と言っている。

上川内の国見太子堂

国見太子堂境内の巳待塔

暦の「つちのとみ」の日を信仰するのが、巳待である。本尊は弁財天で、ヘビを神使としている。この日の巳の刻(午前10時頃)を待って弁財天を祈り、その姿を拝んだ者は幸運に恵まれるといわれた。元来は水の守護神であり農業神であったが、音楽・技芸を司る神として、また鎌倉時代以降は福徳神としても信仰されるようになり、七福神の一人と数えられた。
 蛇を使いとしているところから、蚕を食べる鼠の天敵であるので、養蚕の業に携わる人々の信仰をも集めたのであろうか、川内には14基の巳待塔が確認されている。中でも、下川内字宮ノ下の三叉路にたつ「巳需供養塔」は、大きさも風格においても群を抜いている。この明和7(1770)年の供養塔が最も古く、明治9(1876)年まで巳待信仰が続いていた。

上川内国見太子堂の巳待塔

林の間地

聖地とは、
宗教的に、あるいは伝承的に禁忌とされた土地を言う。社寺の斎場も、霊山も聖地である。聖地には特定の田畑や屋敷、丘や峠・滝などがあるが、上川内には「林の間地」がある。間地は町・街・坊などと同義語で、屋敷の中の一区画をいう。聖地には、中世の修験者によって新たに選定されたり、占有されたものがある。この「林の間地」もその例に洩れず、元亨元(1321)年に、本山派の熊野を修行場としたであろう林蔵院浮仙という修験者が、常陸国車の城立小山より、当村の上川内久保地内に熊野権現を勧請したのが始まりと伝える。後には、三渡神社・稲荷神社・若木神社など、近隣の屋敷神が祀られるようになった。

上川内林の間地

久保の林の祠

聖地は、宗教的に、あるいは伝承的に禁忌とされた土地を言う。社寺の斎場も、霊山も聖地である。聖地には特定の田畑や屋敷、丘や峠・滝などがあるが、上川内には「林の間地」がある。間地は町・街・坊などと同義語で、屋敷の中の一区画をいう。聖地には、中世の修験者によって新たに選定されたり、占有されたものがある。この「林の間地」もその例に洩れず、元亨元(1321)年に、本山派の熊野を修行場としたであろう林蔵院浮仙という修験者が、常陸国車の城立小山より、当村の上川内久保地内に熊野権現を勧請したのが始まりと伝える。後には、三渡神社・稲荷神社・若木神社など、近隣の屋敷神が祀られるようになった。

上川内久保の林の祠

国見太子堂の庚申塔

高さ157cm

庚申は「かのえさる」の日で、60日に一度めぐってくるが、かのえさるの年というと60年に1度になる。
庚申の夜に眠ると三尸の虫が体内からぬけ出て、天帝にその人の罪を知らせるので命を奪われる。だから、この夜には近隣の人たちが集まって、眠らないで夜を明かした。
川内では、この講中は全く姿を消してしまったが、石塔よりするとかつては下川内の町・小田代・宮渡・宮下で行われたことがあり、上川内では向原・遠上・中島の人たちが講を組み、三組合同の庚申塔をたてた。中でも遠上では、若者組がこの塔を造立している。
庚申は道教より出たものであるが、わが国では早くから広まり、枕草子などにも書かれている。
庚申の夜は、夜を徹して語り明かしたので、普通の日に面倒な話になると、「その話は庚申の晩に」といわれる程、江戸時代になると庚申信仰は庶民の間に広まった。
庚申=猿田彦神という観念から、道案内・旅行の神とされたり、猿の信仰とも結びついて猿を神使とする山王大権現と同一視されたりしたのである。従って馬の守護神として、眼病平癒の祈願としても信仰された。このように、庚申は種々の信仰と重なって庶民の間に伝わったのであった。
川内には、宝暦5(1755)年までの庚申塔30基を有するが、どのような祈願をこめて造立されたものであろうか。
上川内字久保の庚申塔は大正14(1925)年に造立されているが、ウブズナ様として祀っているらしい。また、川内村の庚申塔を見ると、台座に三猿あるいは二猿を描いたのは数基あるが、青面金剛像は一基もなかった。
向原・遠上・中島講中で造立した庚申塔について、古内トミ氏は次のように語ってくれた。
私ら幼い頃、お爺さんにだっこしていて他の人に話しているのを聞いたことですが、みんな虫を殺したので、その供養のためにたてたそうです。旧暦10月10日っていうと刈り上げ祭りで、庚申様のお祭りだっていうことはわかってました。10月10日っていうのとお正月は、こんな大きなお供え餅を親戚に配って歩いたんだけども、交換のようだったね。お嫁さんの休み日でした。

上川内の国見太子堂の庚申塔