川内村観光協会

早渡の天照皇大神

屋敷氏神
屋敷とは、ある一定の地域をさすが、ここでいう屋敷氏神とは個々の邸内の一隅に、あるいは所有地内に鎮座している氏神をいう。祖先神として、また家の守り神として、元来本家だけに祀られたものであったが、本家が遠くにあるので参拝もままならないとか、職業によって祀る神が異なるという理由で邸内に祀る場合もある。川内村にあっては、このような屋敷氏神を持つ例は以外に少なく、これは同族がより強固に結合している現れではなかろうか。
屋敷氏神とは、本来は新藁で作ったツトコ氏神とか、フウデイと呼ばれるものであった。しかし、川内村にあっては、その風習は失われつつある。
田ノ入りの渡邉栄三郎氏の場合、出身地である伊達郡梁川町の茅原稲荷を、個人の氏神として屋敷内に勧請している。
旧暦9月9日(現在では新暦11月1日で、幣束も十本までに制限している)の幣束まつり(ツトコまつりともいう)には、崇敬する人々が藁ツトに赤飯を入れ、幣束とともに氏神様に供える。この時には、道端の石塔や石仏に至るまで、藁ツトーツトコーを供えるのである。
久保の秋元カツミ氏は、「おれげのウブスナ様の右脇んとこさ、9月祭の時に藁のウラの方しばって丸めて作ったの。前さ平らな石コロ置いて、幣束あげたんだ。何神様だかしゃあねえが、おらげのおんつぁま、ツトコあげっ時こせえてんの見たことある」と言っている。
もう一人、このような氏神様を見たと証言しているのは、町分に住む猪狩文男氏で、「井出小左衛門さんの所では、藁で屋根みたいなの作って幣束を入れて、おまつりしていんの見たことあんだ。今はなくしちまったが、藁の上の方まるめてツトコと幣束あげてんの見て、氏神様なんでこういうことやんのかと思って見ていた。おらの青年時代のことで、この辺では小松屋だけだったな」というように、今では作っている人もいないし、作った人は皆故人になっているという。
しかし、ツトコ氏神は存在していた。瀬耳上の新妻忠義氏の裏山には、六基のツトコ氏神が所々に祀られているが、その意味は知らないという。舘屋の三瓶道夫氏のマケ氏神の周辺にも、四基のツトコ氏神が確認された。同所の三瓶善勝氏は、「昔はどこでもやっていたようだが、ここのツトコは心中した人がいたんで、拝んでもらったらこうゆうのあげろっていわっちぇ、あげたようだ」と言っている。高田島の猪狩定夫氏は、父親から聞いた話として、「わがいの犬とか猫とか馬、つまり眷属が亡くなった時に、幣束祭りにお祀りすんだ」と言っている。その名称については知らないが、今でも何軒かで行っているという。場所は、ウブスナ様の周辺である。
『本邦小祠の研究』によると、いわき地方や相馬の方では、最終の年忌(タテ止め)がすむと、つつこ神になると言われている。現在では犬や馬の霊であっても、根底には祖霊的要素が多分に含まれているのである。

上川内早渡の天照皇大神

町分の一門氏神

ウブスナ様とも呼ばれ、屋敷内や、裏手の私有林内に祀られている。
一門氏神ーマケ氏神ーの歴史は古く、物部氏が布都大神を奈良県天理市の石上神宮に祀って氏神とした例や、広く知られているところでは、藤原氏も一門の氏神として春日大社を擁していた。この祭礼には、氏人は相当な負担をしたことが記録に残っている。藤原氏の氏神であった春日大社も、現在では奈良市に住む人たちの総氏神に変わっていった。
東京都台東区根岸に、元三島神社という社がある。神職は河野氏であり、自分の屋敷神であったが、近所に住む人たちが「氏子にしてくださいと頼みに来た」と、宮司が語っていた。これらの例から見ても、古い形の同族神が衰えることにより、鎮守としての村氏神が抬頭してきたものと思われる。
『民俗学事典』によると、ウブスナ神とは生まれた土地の神で、本来は氏神・鎮守神とは異なる。生まれた子供の初の宮参りに必ず産土神にゆくことにしている村は多い。ウブスナ神はウブ神とも関係があろう。ウブ神は出産に際して守護にあたる神であるとしている。とすれば、ヒアケに祖母が孫を抱いて、ウブスナ様に参拝することもうなづける。
上川内字町分の井出家は、龍田・秋葉・若木の三神を氏神としている。一門一〇戸の氏神で、その由来は「当社勧請之儀ハ不詳、然レトモ往古大和国井出某当郡井出……田神霊ヲ奉祀ス、又某一族某ナル者当地ニ来リ住ス、故ニ当社ヲ勧請ス」とある。これより察すると、井出家発祥の地であろう大和(奈良県)より龍田の風神を田ノ神として奉祀したことが知られる。火防の神としての秋葉神社は明治5年に、疱瘡神である若木神社は明治17年に同所に勧請されている。
また、同一敷地からやや離れて、石井家の氏神があり、その敷地内に石井金七氏個人の氏神として、天神宮の祠がある。この家では、教員が何人も出ているからだという。いわゆる職能神を氏神としている例である。
下川内の佐久間淳氏の家は、通称「荒宿の酒屋」と呼ばれ、代々庄屋の家柄であった。同氏の邸内には、稲荷神社が祀られており、『郷土誌』によると、「明治元年九月、山城国伏見ヨリ御分霊奉遷」とあるが、家系図によると、「文政六年末四月、家の後ロニ安置スル処ノ稲荷神社、正一位ヲ下シ給ヘ、正一位佐久間稲荷ト奉稱拝」とある。佐久間氏の一族、一〇戸位で奉祀しているという。
また、久保の秋元カズミ氏の家では、文政12年9月の勧請になる「蔵主大明神」と「山神」をウブスナ様としているが、改築するにあたって本家・新宅ばかりでなく、上の屋敷の友だちみたいな人たちも寄附をして「蔵ぬしだから縁起がいいから、みんなで拝むべ」といった例もある。一門氏神の性格より脱皮し、氏子+崇敬者の氏神に発展していく例である。
このような小祠や堂には、講主といわれる責任者がいる。施主などと同じで、多くは本家が講主となり、祭典や修繕の世話を行う。
これらの小祠を、『郷土誌』では「秀倉」(ホコラまたはホクラ)という字を当てている。柳田国男は、『柱祭と子供』の中で、「先づ以て昔の禿倉(又は寳倉)の成り立ちを考えねばならぬ。今日のホコラはたゞ社の極小なもので、小祠などと云ふ漢字を宛てゝも當るやうに認められて居るが、其寳は一時的の、移動自在の神の坐所」ではなかったかと言っている。
このようにみると、次に述べる屋敷神こそ柳田の言う秀倉(禿倉)ではなかったかと思われる。『郷土誌』には、前者の小祠の使われたものであろう。
 山祇・稲荷・熊野が上位三社であるが、4月8日・10月8日を境として山神は田の神へ、田の神は山神となって子孫を守る風習もある(『本邦小祠の研究』)。これらは、祖霊神であると考えられるが、稲荷の中には養蚕の神として、小高町の蛯沢稲荷神社より勧請した社や、伏見稲荷の勧請社もある。

上川内町分の一門氏神

町分の屋敷氏神

屋敷とは、ある一定の地域をさすが、ここでいう屋敷氏神とは個々の邸内の一隅に、あるいは所有地内に鎮座している氏神をいう。祖先神として、また家の守り神として、元来本家だけに祀られたものであったが、本家が遠くにあるので参拝もままならないとか、職業によって祀る神が異なるという理由で邸内に祀る場合もある。川内村にあっては、このような屋敷氏神を持つ例は以外に少なく、これは同族がより強固に結合している現れではなかろうか。
屋敷氏神とは、本来は新藁で作ったツトコ氏神とか、フウデイと呼ばれるものであった。しかし、川内村にあっては、その風習は失われつつある。
田ノ入りの渡邉栄三郎氏の場合、出身地である伊達郡梁川町の茅原稲荷を、個人の氏神として屋敷内に勧請している。
旧暦9月9日(現在では新暦11月1日で、幣束も十本までに制限している)の幣束まつり(ツトコまつりともいう)には、崇敬する人々が藁ツトに赤飯を入れ、幣束とともに氏神様に供える。この時には、道端の石塔や石仏に至るまで、藁ツトーツトコーを供えるのである。
久保の秋元カツミ氏は、「おれげのウブスナ様の右脇んとこさ、9月祭の時に藁のウラの方しばって丸めて作ったの。前さ平らな石コロ置いて、幣束あげたんだ。何神様だかしゃあねえが、おらげのおんつぁま、ツトコあげっ時こせえてんの見たことある」と言っている。
もう一人、このような氏神様を見たと証言しているのは、町分に住む猪狩文男氏で、「井出小左衛門さんの所では、藁で屋根みたいなの作って幣束を入れて、おまつりしていんの見たことあんだ。今はなくしちまったが、藁の上の方まるめてツトコと幣束あげてんの見て、氏神様なんでこういうことやんのかと思って見ていた。おらの青年時代のことで、この辺では小松屋だけだったな」というように、今では作っている人もいないし、作った人は皆故人になっているという。
しかし、ツトコ氏神は存在していた。瀬耳上の新妻忠義氏の裏山には、六基のツトコ氏神が所々に祀られているが、その意味は知らないという。舘屋の三瓶道夫氏のマケ氏神の周辺にも、四基のツトコ氏神が確認された。同所の三瓶善勝氏は、「昔はどこでもやっていたようだが、ここのツトコは心中した人がいたんで、拝んでもらったらこうゆうのあげろっていわっちぇ、あげたようだ」と言っている。高田島の猪狩定夫氏は、父親から聞いた話として、「わがいの犬とか猫とか馬、つまり眷属が亡くなった時に、幣束祭りにお祀りすんだ」と言っている。その名称については知らないが、今でも何軒かで行っているという。場所は、ウブスナ様の周辺である。
『本邦小祠の研究』によると、いわき地方や相馬の方では、最終の年忌(タテ止め)がすむと、つつこ神になると言われている。現在では犬や馬の霊であっても、根底には祖霊的要素が多分に含まれているのである。

上川内町分の屋敷氏神