川内村観光協会

早渡の石尊

神奈川県中郡大山に鎮座する阿夫利神社の別名である。
神体に似た1箇の石にちなみ、石尊権現という。昔は旧暦6月28日が例祭で、この日に参拝することを大山参り、または石尊参りと言った。

上川内字早渡の石尊には、次のような言い伝えがある。
昔、山をホコリ(松煙)を背負って歩いていた人が猪と出会った。「一生に一度のお願いだから助けてくれ」と、日頃信仰していた石尊様に一心に祈った。そして、猪と格闘しているうちに、山の上から背負っていたホコリが落ちて転がっていったので、猪は人だと思ってホコリの方に向った。それで、その人は助かった。気を取りなおして、猪を鉄砲で打って食べたところ、猪肉は三年すぎた古傷もほころびるくらいうまくて食べたが、猪と格闘した際にできた傷が痛くなり、ひどいめにあったが、それでも命はとりとめた。これも石尊様のお蔭と、お礼に石塔を建てた。
という。

速渡の石尊

撮影場所:上川内早渡

中島の巳待供養塔・庚申塔

巳待供養塔 高さ219cm
庚申塔 高さ87cmと83cm

巳待供養塔
暦の「つちのとみ」の日を信仰するのが、巳待である。
本尊は弁財天で、ヘビを神使としている。この日の巳の刻(午前10時頃)を待って弁財天を祈り、その姿を拝んだ者は幸運に恵まれるといわれた。元来は水の守護神であり農業神であったが、音楽・技芸を司る神として、また鎌倉時代以降は福徳神としても信仰されるようになり、七福神の一人と数えられた。
蛇を使いとしているところから、蚕を食べる鼠の天敵であるので、養蚕の業に携わる人々の信仰をも集めたのであろうか、川内には14基の巳待塔が確認されている。中でも、下川内字宮ノ下の三叉路にたつ「巳需供養塔」は、大きさも風格においても群を抜いている。この明和7(1770)年の供養塔が最も古く、明治9(1876)年まで巳待信仰が続いていた。

庚申塔
庚申は「かのえさる」の日で、60日に一度めぐってくるが、かのえさるの年というと60年に1度になる。庚申の夜に眠ると三尸の虫が体内からぬけ出て、天帝にその人の罪を知らせるので命を奪われる。だから、この夜には近隣の人たちが集まって、眠らないで夜を明かした。
川内では、この講中は全く姿を消してしまったが、石塔よりするとかつては下川内の町・小田代・宮渡・宮下で行われたことがあり、上川内では向原・遠上・中島の人たちが講を組み、三組合同の庚申塔をたてた。中でも遠上では、若者組がこの塔を造立している。
庚申は道教より出たものであるが、わが国では早くから広まり、枕草子などにも書かれている。庚申の夜は、夜を徹して語り明かしたので、普通の日に面倒な話になると、「その話は庚申の晩に」といわれる程、江戸時代になると庚申信仰は庶民の間に広まった。
庚申=猿田彦神という観念から、道案内・旅行の神とされたり、猿の信仰とも結びついて猿を神使とする山王大権現と同一視されたりしたのである。従って馬の守護神として、眼病平癒の祈願としても信仰された。このように、庚申は種々の信仰と重なって庶民の間に伝わったのであった。
川内には、宝暦5(1755)年までの庚申塔30基を有するが、どのような祈願をこめて造立されたものであろうか。
上川内字久保の庚申塔は大正14(1925)年に造立されているが、ウブズナ様として祀っているらしい。また、川内村の庚申塔を見ると、台座に三猿あるいは二猿を描いたのは数基あるが、青面金剛像は一基もなかった。
向原・遠上・中島講中で造立した庚申塔について、古内トミ氏は次のように語ってくれた。
私ら幼い頃、お爺さんにだっこしていて他の人に話しているのを聞いたことですが、みんな虫を殺したので、その供養のためにたてたそうです。旧暦10月10日っていうと刈り上げ祭りで、庚申様のお祭りだっていうことはわかってました。10月10日っていうのとお正月は、こんな大きなお供え餅を親戚に配って歩いたんだけども、交感のようだったね。お嫁さんの休み日でした。

上川内中島の巳待供養塔

撮影場所:上川内字中島