川内村観光協会

氷の微笑

1402樹氷

2月13日、気温はマイナス13度まで下がりました。寒い寒いといわれている川内村ですが、平野部でこれくらいに下がるときはめったにありません。先週の大雪以降、川内村は本格的な冬になってます。

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寒い朝、木の枝にびっしり氷がついて、きらきらと美しいです。わたしは樹氷だと思っていましたが、正しくは樹霜というんだそうで、樹氷というのは、もうちょっと寒いところで氷が育った状態のものをいうみたいです。樹氷は冬山登山をしたときにでも見られるものなのかもしれませんが、現在の川内村は、ごくごくふつうの生活圏で、木の枝は凍りつき、ほら、自動車もこの通りです。
寒いですけど、2月も半ばだから、あともう少し、です。

1402樹氷

雪の川内

1402大雪

2月8日土曜日から翌9日の日曜日にかけては、日本全国、大雪でした。川内村にも降りました。長老によると、こんなに降ったのは50年ぶりということですが、ざっと20年くらいごとに、どかんと降ることがあるようです。なかなかてんやわんやの連休でした。

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といっても、いつも降らない東京で20cm、30cmの雪が降ったということですから、それに比べれば、例年20cmくらいは降ることがある川内村で50cmほどの積雪というのは、びっくりしている場合ではないのかもしれません。でもびっくりでした。どうやら川内村は、30cm以上の積雪があると、通常処理の能力を超えてしまうのかもしれなくて、道路の除雪もしばらくは一車線のみ、すれ違いもままならずという状態でした。
積雪から数日たって、ずいぶん道も広くなりましたが、ところどころ凍結しているところもありますので(これはいつものことですが)川内村においでの際は、どうぞご注意ください。

1402大雪

アセビの冬芽

1402アセビ

馬酔木と書いてアセビと読みます。毒のある植物で、馬も酔っぱらうようになってしまうからこんな名前になっているとのことですが、今の季節はやっぱりひっそりと冬ごもりをしています。花が咲くのは、このあたりでは4月初めから5月中旬。まだまだ、もう少し先のことになります。
このアセビの冬芽が、これです。やがて春になれば白やピンクの花をつける美しい花ですが、シーズンオフはこんなふうに赤いつぼみをつけて、春を待っています。色のないさびしげな冬の風景ですが、こんな色もあるのです。
つぼみになる前の状態を花芽(はなめ。あるいはかがとも読みます)といい、冬の風物詩でありますので、冬芽(ふゆめ、とうがとも読みます)と呼んでいます。

映画・家路

1402家路

3月1日「家路」が封切りとなります。松山ケンイチ主演の、原発事故によって故郷を失った人々の家族の物語です。実はこの映画には、川内村が深くかかわっています。川内村に縁のある方、これから川内村に行ってみようと思う方、どうぞごらんになってください。

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川内村には、天皇陛下に献上するお米を作った秋元美誉さんがいます。美誉さんは国が作付けを制限した2011年から検証のためにとお米を作り(一部を検査に回したほかは、全量が廃棄されています)本格的に作付けが再開された2013年には合鴨農法の米作りも再開しました。今回、「家路」の製作にあたり、農業指導したのが、この秋元さんです。
撮影隊は川内村に入り、実際に農業研修よろしく撮影を進めていきましたから、主演の松山シンイチさんも美誉さんに米作りについての指導を受けました。この作品には、美誉さんの農業に対する気持ちも込められているといいます。
予告編にも、川内村の風景が一部登場しています。

1402家路予告編

クリックすると、予告編動画が開きます。

シネマトゥデイの久保田直監督のインタビュー

橋建設中

1402橋の工事

なんだか、工事の話題ばっかりが続いています。このところ、川内村ではさまざまな工事が日常茶飯事になっているのです。本日ご紹介するのは、役場前の橋りょう工事(に関係する取り付け道路工事)です。

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1402橋の工事

村の大動脈は、もちろん国道399号線です。下川内から上川内まで、木戸側沿いを南北に走っています。川内村役場は、この国道399号線から木戸川を渡ったところにあります。そして村役場の裏手に、間もなく再オープンする温泉施設かわうちの湯があります。国道から橋を渡って役場を回り込むようにしないとたどりつかないため、初めて温泉に来る人が迷ったりすることもあるようです。川向こうを見渡していただければ、明かりがそびえ立っているのですが。
だから、というわけではないでしょうが、役場の北側からかわうちの湯に向かってまっすぐの道を作ろうというのが、この橋です。この橋ができれば、役場の敷地を抜けるようにすることなく、まっすぐ温泉に迎えます。温泉の先には広い道路がすでにできているので、こちらが近い将来の幹線道路になるのかもしれません。
この工事は、震災以前から始まっていたものなので、思えば長い工事になっています。でも、もうすぐですね。

1402橋の工事

商工会本館の取り壊し

1402旧商工会館

このサイトの母屋は川内村観光協会で、事務所は川内村役場の向かいの商工会の中にあります。ここに商工会が来る以前は、役場の反対側の商工会館が、商工会事務所でした。その商工会館が今取り壊し作業を受けています。

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この商工会館は、老朽化もしていたし、誰にも使われていない建物でしたから、痛みも激しかったのだと思います。2011年3月の地震で壁が崩れたりしていました。お気の毒に、たまたま建物の横に止めていた役場の職員の愛車が落ちてきた壁のがれきの直撃を受けたりもしたものでした。
壁のほとんどが崩れ落ちた建物も、ようやく取り壊しになって、現在作業中。白いシートの中では、取り壊しのつち音が響いています。今、村を離れていても、商工会会員として、この建物にお世話になった人も少なくないのではないでしょうか。取り壊し前の会館内部には、きのこまつりなど、昔日のお祭りの看板などが保存されていて、時代を感じさせられたものです。

1402旧商工会館と

取り壊しが進んでみると、この周囲に、いくつかの石碑が並んでいるのがあらためて目立って見えてきます。開館前の白い石碑は川内村開拓記念碑です。1970年代の厚生大臣で福島県出身である斉藤邦吉厚生大臣の名前で立てられています。
その隣のでっかいのが土地改良記念碑、2012年3月11日の桜の植樹を機してのさくらプロジェクト3.11の看板をはさんで造林記念碑と並びます。造林記念碑は倉石忠雄農林大臣の名前で立てられています。
斉藤大臣も倉石大臣もいずれもすでに故人となられていますが、やはり故人となられているであろう川内村の先人たちにも敬意を表しつつ、お世話になった商工会館を見送りたいと思います。

1402百葉箱

一番左、川に近いところにはこんなのもありました。昔懐かし百葉箱。これは、今回のお話とは関係なくて、おまけです。重要なものですけどね。

ファミリーマート

1402ファミリーマート

川内村には、ファミリーマートがあります。ファミリーマート川内村店です。村で唯一のコンビニエンスストアですから、なかなかにぎわっています。村外の人には、珍しくもなんともないでしょうけれどね。

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震災前の川内村には、2軒のコンビニエンスストアがありました。ヤマザキショップとモンペリの2軒です。いわゆる上位数社のコンビニは村にはありませんでした。震災後、1軒は営業を再開せず、1軒はしばらく営業していましたが、やはり続けられずでコンビニが一軒もなくなって、そしてファミリーマートの進出で現在に至っています。
川内村のファミリーマートの話なのにぜんぜん関係なくて申し訳ないのですが、セブンイレブンが初めて24時間営業を始めたのは、郡山市のセブンイレブンが初めてだったそうです。東京でも大阪でもなく郡山だったというのがおもしろいとおもいますが、いまでは24時間営業でないコンビニの方が珍しくなりました。
そして川内村のファミリーマートは、その珍しいほうのコンビニです。営業時間は午前7時から午後9時まで。以前は、午後8時以降にやってるお店は村にはありませんでしたから、ちょっとだけ便利になったといえますね。
下の写真は、川内村とはぜんぜん関係がない、郡山市のセブンイレブン虎丸店です。

1402セブンイレブン

民話・研屋作

1402館山全景

本日は、川内村の民話をひとつご紹介します。これら民話は、川内村村史民族篇(昭和63年発行)に記録されています。まずは下川内の館山公園付近に残されているお話です。写真はすわの杜公園付近から見た館山全景です。お題は「研屋作」。とんやさく、と読むのだそうです。館山の北の方の沢に、研屋作という地名が残されているということです。

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むかしむかし、若い男の研屋が川内に来ただど。村にはめんごい娘がいで、その娘ど研屋が仲よくなったど。
したら村の若者が妬いで、研屋を無理矢理山に連れ出して、首だけ出して埋けちまっただど。
そんでこの場所のことを研屋作と呼ぶようになったんだと。

研屋とは、刃物などを研ぐ(とぐ)商売です。包丁やナタなど、刃物を使っている人は多かったと思いますが、刃物の手入れをする人は村には少なかったのでしょうか? このお話に登場するのが研屋さんであるというのは興味深いところです。
「めんごい」とは「かわいい、美しい」という意味です。方言ですが、北関東から東北まで、比較的広く使われている方言です。
「いで」「妬いで」というのは「いて」「妬いて」ですが、語尾が濁るのは、これも方言です。
首だけ出して埋めてしまった、というお仕置きは、どこかで見たことがあります。「精九郎檀とブナ」というお話を紹介したことがありますが、なんだか似たような結末ですね。
研屋はとぎやですが、研屋作はとんやさくと読みます。研屋をとんやと読むのかもしれないし、じいさまたちに言い伝えられているうちになまってしまったのかもしれません。なんでとんや「作」なのかはわからないのですが、もしかしたら研屋をとじこめたという意味の「研屋柵」ではないかという気もするのですが、今となっては確かめようがありません。
ちなみに研屋作という沢がいったいどこにあるのかは、さっぱりわかりません。土地の長老に聞くと「あっちだ」と教えてくれるのですが、連れていってやるという人は誰もいなくて、ひとりで山に入ってもさっぱりわからず。
民話だから、今回は謎のままおしまい、ということにさせていただきます。

川内村百周年モニュメント

2014年の百周年の碑

川内村コミュニティセンターの駐車場の一角に、こんなモニュメントが立っています。実はこれ、ちょっと前までは道路のど真ん中に立っていたのですが、村が帰村をするのとと気を同じくして、場所を移動したのでした。

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モニュメントは、正しくは「村制施行100周年記念モニュメント」といいます。川内村は明治22年に誕生しています。明治22年は1889年で、上川内村と下川内村が合併して、川内村となったのでした。
それから百年後、村ができて100周年を記念して、このモニュメントが立てられました。100年は1989年の平成元年。モニュメントが完成したのは11月のことでした。
高さ2.6メートルで3本のステンレス柱が1メートルの本村産の白御影石(しろみかげいし)製の三つの円盤を支えている石の造形物で、三つの石の円盤は村民の融和を表し、その円盤は斜め上に向かって開き、村の振興と発展を意味しているそうです(看板に、そう書いてあります)。
このモニュメントの、昔の写真があったので、あわせてご紹介しておきます。2011年3月12日、富岡町から避難した人たちでごった返している役場周辺の写真ですが、右端に、このモニュメントが写っています。役場の裏のここは、ロータリー交差点みたいになっていたのですね。
今は、ここに橋が架かろうとしていて、モニュメントの移動は、橋の新設によるものだったのです。 

2011年の百周年の碑