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	<title>川内村観光協会 &#187; 史跡</title>
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	<description>福島県浜通りの山の村。「村はひとなり」。川内村へ、ようこそ。</description>
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		<title>川内村の戊辰戦史</title>
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		<pubDate>Mon, 29 Jul 2013 05:20:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator>nishimaki</dc:creator>
				<category><![CDATA[はつおが行く！]]></category>
		<category><![CDATA[上川内]]></category>
		<category><![CDATA[史跡]]></category>
		<category><![CDATA[長福寺]]></category>

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		<description><![CDATA[2013年、いまどきはNHKの大河ドラマ「八重の桜」が話題になることが多いのですが、川内村でも会津藩にまつわる話があります。今日は「八重の桜」番外、川内編を &#8230;]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><a href="/course/wp-content/uploads/2013/07/1307boshin3.jpg"><img src="/course/wp-content/uploads/2013/07/1307boshin3-620x413.jpg" alt="1307童女の墓" width="620" height="413" class="aligncenter size-large wp-image-1417" /></a></p>
<p>2013年、いまどきはNHKの大河ドラマ「八重の桜」が話題になることが多いのですが、川内村でも会津藩にまつわる話があります。今日は「八重の桜」番外、川内編をお伝えしましょう。時代は慶応4年、会津が落城する、その数カ月前のことです。</p>
<p><span id="more-1414"></span></p>
<p>この愛らしい顔の石像は、実はお墓です。戒名を平安藤源一滴善童女といいます。陸奥国磐城平藩の第5代藩主、安藤信正の娘ということです。このお姫さまが、川内村羽貫立で命を落としたため、ここにお墓をもうけたというのが、歴史です。<br />
ではなぜ、安藤信正は幼い姫を連れて川内村にやってくることになったのか。それは賊軍として新政府軍に追われることになってしまったからです。<br />
安藤信正は幕末に若年寄、そして老中を務めますが、この間、朝廷と幕府の関係をうまくまとめようとしたり、天皇家と将軍家の縁組みをしたり、開国に向けて労をとった権力者でもありました。しかし開国を望まない勢力にとっては目の上のたんこぶとなり、江戸城の坂下門のそばで不満分子に襲われてしまいます。これが坂下門外の変という政変です。<br />
斬られて傷を負っているのに、斬られ方がだらしがないと老中を罷免され、地元磐城平に戻って藩を治めている頃に、幕末の内戦が勃発します。戊辰戦争です。<br />
慶応4年。これは江戸時代の最後の年となりますが、この年の5月、賊軍とされた会津藩と庄内藩を救おうと、東北と新潟が同盟を形成します。これが奥羽越列藩同盟です。安藤信正も、もちろんこれに参加します。しかしそのわずか2ヶ月後、磐城平城は小名浜に上陸した新政府軍により陥落してしまいます。安藤信正の逃避行が始まります。逃げる先は相馬でした。<br />
この逃げ道に、安藤信正は川内村経由を選びました。おそらく、海沿い（今の国道6号線あたり）を通ったり郡山に向かったり（国道49号線）すれば、すぐに追っ手に見つかってしまうと考えたのではないでしょうか。川前（川前村。今のいわき市川前町）の荻から川内村に入ったという記録が川内村村史に残っています。<br />
そして川内村についたとき、48歳の安藤信正がかわいがっていた娘が亡くなってしまいました。解説によるとその場所は羽貫立（はぬきたち）とあります。現在の住居表示では銭耳上（ぜにがみ）になりますが、県道36号線を川内村役場から少し小野方向に向かったあたりです。お姫さまは川内村の中心地を目前にして、その短い人生を閉じてしまったものと思われます。病気だったのか、過酷な逃亡の旅が応えたのかはわかりません。<br />
傷心の安藤信正は、村人にお願いして、この娘の墓を作ることにしました。墓を作る礼に、城代家老の刀を置いていったということです。これも村史に記録が残っています。娘を亡くした安藤信正は、このあと長福寺に4泊して、高台の毛戸地区を経由して相馬へ逃れていったということです。<br />
この時、安藤公をお守りしていたのが、純義隊（有名な彰義隊のような部隊）です。こういった彼らは、職務を全うする一方で、旅の先々で地元の人の蔵を襲ったり、悪さをしたりということもやったようです。実は川内村でも、庄屋さまがしばりあげられたりという史実が残っているようです。しばられたのは秋元権十郎という庄屋さんですが、なにを隠そう、私も秋元です。どうやら純義隊にしばられてしまったのは、わたしの遠い祖先ではないかと思います。もちろん現代のわたしには人様に縛られる趣味はありません。<br />
ちなみに、秋元さまがしばられてしまった記録は川内村村史の第一巻、360ページに出てくるのですが、そこには秋元五左衛門と書かれています。別のページには与左衛門として出てきたり与五左衛門として出てきたりしています。同一人物の名前をまちがえて記載したのかとも思いましたが、ちょっと調べてみました。するとこれらの秋元さんは、ほぼみなさんそれぞれ別に存在していた人だということがわかってきました。<br />
江戸時代、山楢葉と呼ばれる地域がありました。上川内村、下川内村（その後、このふたつが合併して川内村となります）、川前村、上桶売村、下桶売村、小白井村の六ヶ村のことを山楢葉と呼んだのだそうです。これは川内村村史にも記載がなかったので、川前村村史で確認していただいたところです。そしてこの山楢葉全体を司る大庄屋という役職があったのですが、これが秋元五左衛門さんでした。そして下川内の庄屋さんが与五左衛門さんだということもわかりましたが、与五左衛門さんの姓は佐久間さんでした。もうひとりの秋元与左衛門さんというのは、残念ながら身元はわかりませんでした。しばられてしまった秋元さんは、上川内の庄屋さんであった秋元権十郎でした。やはり、わたしの家系の（といっても直径のご先祖さまではないのですが）遠いご先祖さまだったようです。いまさらながら、ご先祖さまのご苦労が偲ばれるところです。<br />
さて心優しい安藤信正公は、狼藉を働く部隊を切り離して、自分たちだけで相馬への逃避行を続けることになりますが、それもつかの間、7月には降伏して、この逃避行に幕を下ろします。<br />
これを書いている今、NHKテレビの「八重の桜」では、八重扮する綾瀬はるかが泣きながら会津藩の不遇を憂いでいますが、会津若松城が落城したのは安藤信正公が降伏した、約2ヶ月後の9月22日、庄内藩が降伏したのが9月27日のことでした。<br />
信正公は、その2年後、明治2年に亡くなっています。</p>
<p><a href="/course/wp-content/uploads/2013/07/1307boshin1.jpg"><img src="/course/wp-content/uploads/2013/07/1307boshin1-620x413.jpg" alt="1307安藤信正歌碑" width="620" height="413" class="aligncenter size-large wp-image-1415" /></a></p>
<p>逃避行の途中、現在のいわき市の川前町には、安藤信正公の歌碑が立っています。</p>
<p>志ばしとて雨宿りせむかひぞなく<br />
　こころもぬるる山毛欅の下かげ</p>
<p>これを揮毫したのは、歴史小説家の山岡荘八。碑文を書いたのは、安藤信正公を迎えた長福寺の、時代が下っての住職、矢内俊晃和尚でした。</p>
<p><a href="/course/wp-content/uploads/2013/07/1307boshin2.jpg"><img src="/course/wp-content/uploads/2013/07/1307boshin2-620x413.jpg" alt="1307童女の墓" width="620" height="413" class="aligncenter size-large wp-image-1416" /></a></p>
<p>平安藤源一滴善童女の墓は、村役場からほど近くにあります。</p>
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